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祥雲山慶瑞禅寺(しょううんざんけいずいぜんじ) 富田荘にあり。禅宗黄梁派。
禅堂本尊観音 赤栴檀香木・天竺毘首竭摩天の作。旧は後水尾院の御念持仏なり。寛文五年当寺に御寄附。
寺説に日く、
当寺いにしへは景瑞寺と書し、持統天皇紀八年道照法師の開基にて法相宗なり(年歴久遠なればl記録を失す。古人の語録・世人の口実を碑とす。遺照法師の家司田所氏門前に住居し寺領農家の長たり。その後狭間氏と改め家亡ぶ。今その古跡を狭間と字して門前に存す。
中頃諸堂兵火に罹りて唯一堆の松林のみ存在せる処に、応永年中松岩(しょうがん)禅師中興して寺職す。東福寺の月泉和尚の疏語に審なり。時の人景瑞庵とよぶ。寛正三年松岩禅師入寂の後、文禄三年浅野弾正 少輔長矩検地の時古蹟によって除地に定めらる。それより承応の頃ほひ僅の草奄をむすびて禅室を相続し、明暦元年諸檀信の招請に応じて普門寺の竜渓(りょうけい)和尚中興し、文字を慶瑞寺と改め、延宝二年初めて黄檗山万福寺の末院と成る。
竜渓和尚に詔して大宗正統禅師の号を賜ひ、当山中祖と称す。そもそも竜渓和尚は慶安四年妙心寺に勅請あり。また承応三年普門寺に再任す。この年隠元和尚明の乱を避けて日本へ渡り崎陽に止宿す。竜渓和尚いまだ対顔もせざる前に一首の詩を熟吟して隠元の徳沢を慕ひ、朝に奏し明暦元年隠元を普門寺に請して興禅の願力ますます盛なり。
しかるに明暦三年後水尾上皇時々両師を召され、禅法御聴受あらせられ、すなはち徳山入門の御製の和歌を賜ふ。
寛文三年、台命を蒙りて山州大和田荘に黄檗山寺を創建し、同年十月隠元和尚進山あり。これより黄檗派日本に興隆す。摂州においても四十余ヶ寺あり。ことごとく記する事能はず。由緒あるを挟んで載す。
寛文四年には近州日野正明寺に竜渓和尚進山し太上皇の勅額を賜ふ。同五年林丘守宮光子内親王御受戒あり。その時当寺方丈御建営ありて、御詔簾・御紋幕・網代乗輿御寄附ある。同七年には法皇御開悟あらせられ、竜渓和尚を師としたまひ御伝法ある。その時仏牙舎利・御香等数晶を腸ふ。同八年太上法皇宮中にて御受戒まします。黄檗一宗の僧侶天子の輪旨を受けざるは竜渓和尚の伝法あるがゆゑなり。
当寺の住職は代々後水尾法皇の御法系なり。しかる間日本黄檗宗派典禅初発の地なり。かつて隠元禅師この地に六ヶ年止宿したまひ、黄檗山の後二世木庵(もくあん)和尚に命ぜもれ、当寺尊重の勧言一軸あり。
その文に日く、山に崇あり、水に源あるの句あり。ゆゑに当山を黄檗一宗の崇源といふなりとぞ。
摂津州島上部富田の荘、祥雲山慶瑞禅寺開山、特に大宗正統禅師を賜ふ、竜谿大和尚御葬塔銘
                                                   住仏国禅師支那高泉、薫沐拝撰
その略に云ふ、師姓は奥村氏、京兆の人。生まれて多病、父母常に仏に祈る。始め五歳、忽ち病ひて死す。父母痛哭。適僧有り。その家に至り、その所以を詢ふ。すなはち腰下に艾を灼く。少しくあって蘇る。父母喜びてその名字・住止を問ふ。僧答えずして去る。これより女すます三宝尊を信じ、八歳にて東寺に入る。密教を習ふ。師の叔父、師の気宇超邁なるを見て、これに謂ひて日く、子はすなはち宗門の人。いづくんぞここに淹滞するや。師すなはち摂州の普門寺に入る。時年十六、剃度受戒。意を禅学に留む。二年を越えて遊方。?風臥雪およそ十五年。『雪賓語録』を読むに逮びて、力を極めて参究することまた六年。すなはち慶快を得、因って衆に謂ひて日く、我れ向来世て知る、道文字の上に在らざることを。今日始めて知る、また文字を離れざることを。慶安四年、朝廷紫を賜ひて妙心寺に住す。承応三年、再任す。嘗て『川老金剛頌評』『虚堂語録事義』を述す。師恒に海を超えて入唐し、師を尋ねて印可せんことを欲す。惜むらくは国に禁有りて所懐を果たすこと要し。乙末歳、隠元和尚肥州に応化す。適僧有り至る。師問ふ、和尚何の言句力有る。僧答ふ、近偈有り、云く、雲に挑んで市に入るとも人買ふ無し。杖黎を悩殺して帰去来。師聞き得て欣然、衆と僉議して普門に請す。一見、夙契のごとし。丁酉夏、法皇師を召して内殿に入れて法を問ふ。奏対して旨を称ふ。竜顔大いに悦ぶ。徳山門に入ればすなはち捧すを頌するの歌を腸ふ。戊戌九月、大将軍五幾の勝地を捨て僧糧に給す。師、祖を輔けて新黄檗を開く。甲辰正月、師、江州正明寺の請に応ず。四月、法皇師を召して説法。栴檀香十斤・黄金・絹帛等を賜ふ。また勅して寺額を腸ふ。乙巳十月、藤大妃、師を請ひて、陞座説法。この月、法皇、旛枝山の御園を賜ひて、以って禅苑と為す。天寿山資福寺の二大額を御書す。十一月、旨を奉じて、光子内親王の為に戒法を宜ぶ。仏舎利塔・栴檀観音の像・初祖の像・御牙・御杖等を賜ふ。明年三月、師、天寿に進む。法皇、忠康平公を遣して、御香・白絹・画屏等を賜ふ。新院上皇もまた、香幣を錫ふ。十一月、法皇、心経の要義を問ふ。すなはち『心経口譚』一巻を撰す。戌申四月、詔して大内に入る。親しく菩薩大成を受く。一日、法皇、禅要を咨詢す。師、粕樹子の公案を挙す。上、頓に知解を除ふ。根源に洞徹す。錫ふに、大宗正統禅師の号をもってす。勅して、著はす所の『請益録』を改めて、『宗統録』と為す。刊版流通を賜ふ。併びに親ら最翰を御す。その略に云く、人をして不見の見を成し、未聞の聞を持せしむ。その機をもって機を奪ひ、毒をもって毒を攻むるに至りては、何ぞ止方の竹杖を削円し、紫茸氈を[晩]却するのみならん。真ちに得たり、古今を鉗鎚し、仏祖を烹?することを。朕、繊毫頓かに断じ、大活現成す。須弥高からず、洋海広からず。覚え三世を円裏し、光、大方に通徹す。始めて、古仏の心宗大にして外に無きことを知る。師、実にその正統を得る者なり。また、法乳を謝るの宸翰を賜ふ。寛文十年四月、師、衆を領して正明に就きて、坐夏。上の慰問を蒙る。夏満ちて恩を謝し、旋りて黄檗老和尚を省す。信宿して去る。八月十五日、大坂諸壇護の請に赴く。弟子拙道の九島院に寓す.先づ一日衆に示して日く、
  六根、境を捗れば、那ぞ減と言はん。心、縁に随はざれは、豈、生と謂はんや。涅槃真正の道を踏転し、帰程、水調歌を唱ひて行く。
二十二日、有司の斎に応ず。この夜、合府の官従、師を請ひて法要を聞示せしむ。 師、高声に挙揚す。群聴を聳動す。次の早、有司使を遣して礼謝す。忽ち暴雨俄かに至り、山海震動、旋雹地を刮り、巨浪天に翻る。諸従者、師を促して逃避せしむ。節日く、生死の数たり。それ、逃るるぺけんや。汝等端心正念にして可なり。弟子等、勢の険なるを見て、師を掣きて座を起つ。師、声を?ましてこれを責めて日く、生死の際、当に正念を持すペし。いづくんぞ顛倒することしからんや。かくのごとき三たび、すなはち筆を索めて偈を書して曰く、
  三十年前恨みいまだ消えず。幾回か屈を受く爛藤の条。今晨、怒気人に向かつて吐く。喝一喝卻倒す、胥江八月の潮。書し巳りて諸を篋中に秘す。俄かに浪漲り屋裂く。一時に湮没す。師、独り水中に趺坐して、夷然として動かず。頂門炙くがごとく、顔色生けるがごとし。四方の緇白、張惶して競ひ至る。師の端坐せるを見てその恙無きかと疑ふ。すなはちこれを視れば、己に蛻す。すなはち、空に当たりて羅拝し、声を挙げて大いに異すること、怙侍を失ふがごとし。実に康戌八月二十三日なり。即日迎へ帰りて、祥雲山に闇維す。聞かして法皇に至る。これが為に嗟惜して御膳を減ずること数日。特に祭を内殿に賜ふ。嘗て内府の金を出だして師の為に卒を造る者三つ。城州黄檗・江州正明・摂州慶瑞。覆ふに堂宇を以ってす。尊厳を示すとなり。かつ、勅して毎歳諱日、必らず正明に就きて法事を修す。嘗て師の肖像を造る。官に入りて供養してしかる後始めて塔上に奉ず。また経蔵を賜ひて以ってこれを鎖ず。
示寂の地は大坂衢壊島九島院の下に見えたり。





慶瑞禅寺(けいずいぜんじ) 高槻市昭和台町2-25-12
祥雲山(しょううんざん) 黄檗宗
持統天皇8年(694)に道昭が法相宗の景瑞寺として創建。寛文元年(1661)頃に普門寺の龍渓が入山して寺号を慶瑞寺と改め再興。


山門


鐘楼


鐘楼の額  承詔必謹 伯爵 東郷平八郎書。


天光塔(てんこうとう)開山堂 龍渓像を安置。


龍渓直筆碑  寛文10年8月23日龍渓が弟子拙道の九島院に居るとき、水難に遭い水調歌を唱し、その直筆を碑に刻んだもの。
三十年前恨未消 幾囘受屈爛藤條 今晨怒氣向人(噴) 喝一喝 卻倒胥江八月潮


聖歯塔(せいしとう)
後水尾法皇の崇敬篤く、寛文5年皇子の隠仁親王が亡くなると、その歯を、同7年には仏舎利3個と法皇の歯1個を収めた舎利塔を賜り、石塔に収めた。

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