九島禅院(きゅうとうぜんいん) 同所(衢壌島)にあり。禅宗黄檗派、当国富田慶瑞禅寺に属す。霊亀山と号す。
九島院の額は支那竺庵和尚の筆
本尊聖観音(長三尺ばかり。当山は慶瑞寺の開祖、竜渓(りゆうけい)禅師閑居の地なり。時に寛文十年八月二十三日、暴雨驟(さわぎ)至って山海震動し、旋風地を刮(ゆす)りて、巨浪天に翻る。禅師は安禅して一偈を書し、一時、湮没(いんぼつ)す。事は島下郡の部下、慶瑞寺の碑銘に見えたり。同十一年後水尾法皇、詔を下して秋八月水灯会を修す。宝永の頃、久しく怠慢せしが、享保三年公許有りて、七月十八日の夜、安治川口の中流においてこれを修す。これより怠る事なし


九島院(くじょういん) 大阪市西区本田3-4-18
 九島院は、霊亀山と号して黄檗宗(禅宗の一派)に属し聖観世音菩薩を本尊とする。
 当山の草創は詳らかでないが、寛永の頃、幕吏香西哲雲ろ土豪池山一吉が衢壌(九条)島を開発し、『興禅庵』と称した小庵を新田鎮護と五穀豊穣を祈念して、寛文3年(1663)に拙道和尚を迎え『久島庵』として祈祷道場にした。
 拙道は師の龍渓禅師を開山に仰いで開くが寛文10年(1670)8月15日開堂法要の折、大亀花を背負って祝福に大暴風雨と大津波が来襲、十数人の僧が水死、禅師はその時坐禅のまま従容として水定死された。後世の人は禅師を『九条の人柱』とよび、その不慮の死を弔い、かつ又その死を無駄にせぬよう祈った。
 後水尾法皇は龍渓禅師の御弟子で、『大宗正統禅師』の特賜号を下賜されていたが、同11年詔を下して、毎年8月に水燈会を修し国の災禍を払い、当地の五穀豊穣を祈願され併せて禅師の菩提を弔われた。延宝8年(1680)法皇が崩御されると、皇女林丘寺宮光子内親王は法皇の御尊牌と御念持仏の観音像、菊花御紋章入り乗輿を下賜され、併せて当院の菊花紋章使用を公許された。
 寺内に飯田直好ほか郷土先覚者の墓、息災延命観音、大亀通霊、大亀地蔵尊、桂上登画伯筆の62面の襖絵『中国山河図』がある。 
 昭和45年大阪市史蹟とされた。





龍渓禅師墓 
龍渓性潜(りゅうけいしょうせん・1602〜70) 摂津国普門寺で出家し、京都妙心寺の首座となる。 承応3年(1654)中国から隠元隆?が来日すると、その弟子となり隠元のもとで宇治黄檗山萬福寺の建立を助けた。


 飯田直好墓

江戸中期、あまり裕福でない商人の息子だった飯田直好は幼少のころから大志を抱いて船に乗り込み、苦労の末、回船問屋の主人に出世。
生来慈悲深く施しを好み、安治川の治水に私財を投げ打って尽力し、生涯清貧に身を置いたという。

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