茨城川(いばらきかは) 一名佐保川。水源二流。一は佐保山より流れ、一は勝尾山より流る。
二水中川原に会ふて手鞍川と云ふ。畑田・倍加・茨木・沢良宜を過ぎて三宅に至り末は安威川に入る




茨木川(いばらきがわ)は、大阪府茨木市を流れる川で安威川の支流。延長13.3km
昭和10年(1935)6月29日の大雨で決壊し、大きな水害が起こり、昭和16年(1941)に西河原で安威川に合流するように付け替えた。

茨木村村誌(明治12年12月)
 西ノ川上ニテ二川アリ 一川ハ同郡勝尾寺山ヨリ流出 是ヲ上ニチハ勝尾寺川ト云 一川ハ同郡佐保村ヨリ流出 是ヲ佐保川下云 同郡福井村中河原村ノ間ニテ落合一川トナル 当村辺ニテハ茨木川下云 同郡鶴野村ニテ安威川ト落合神崎川江入 長凡五里計 此川十月頃ヨリ四月頃マテ聯流水有之 四五月頃ヨリ九月頃マテ流水無之 夏川洪水ニテ堤破壊スト雖モ五日計ヨリ流水無之 故甚旱ニ不堪 尤モ深浅記載ニ不至 此川筋当村用水樋四ケ所 宇佐介屋敷ニ一ケ所 佐介樋ト云 字殿町ニ一ケ所 寺ノ上ノ樋ト云 字柳ニ一ヶ所 柳ノ樋ト云 字宮田ニ一ケ所 宮田ノ樋ト云 以上四ケ所 此茨木川ノ儀ハ里老伝云
 倭姫ノ命豊受ノ神ヲ丹後ノ国江御迎ヒノトキ茨木ヲ通行ナシ玉フ節 天上ヨリ五十鈴ヲ下シ玉フ故此川ヲ五十鈴川ト云 又此社地ヲ五十鈴ノ森ト云 伊勢ノ五十鈴川ハ是ヲ以名クト延喜式注解ニ有之由申伝候

茨木川(いばらきがわ)は、大阪府茨木市を流れる川で安威川の支流。勝尾川に合流する部分より上流では、名称は「佐保川」となっています。

茨木川に合流する前の勝尾川の茨木市側上流は”彩都”と名付けられた土地開発に伴い、河川の改修が行われています。


佐保川と勝尾川の合流するところはを「白井河原」といい、茨木,伊丹両氏と池田氏とが歴史上の合戦をしたところです。

安威川 茨木川 合流の碑  茨木市田中町
茨木川は、本市北部の山地部から中央部を、安威川と並行して貫流し、三宅村で合流していました。 昔は、川幅が甚だしく狭いうえ天井川で、しかも、堤防の土質が軟弱なため、一度洪水にあうと破堤崩壊して、たびたび濁流氾濫の災害をおこしてきました。 昭和に入って同10年の水害の折、沿川の、茨木町長西田善次氏、玉櫛村長高島信蔵氏、玉島村長岡田杢之助氏、三島村長谷山台三氏、春日村長川村英太郎氏、三宅村長田畑新吾氏が、連署して政府および、大阪知事安井英二氏にその実情を訴え、速やかに河川改修事業を実施するよう陳情書を提出されました。  当時の府議会議長磯村弥右衛門氏等関係者の協力を得て、町村民の結集した努力の結果、昭和16年茨木川は田中町地先で、安威川に合流され、現在の姿になりました。合流点以南の区間は、昭和24年廃川となり、現在は、元茨木川緑地として整備されております。  昔からたびたび洪水に悩み、懸命に対応してきた先人の賢明さと粘り強さを知り、洪水にたいする先人たちの苦労に感謝し、その功績を顕彰し、また、後世に引き継いでいくため、ここに合流由来碑を建立します。
  昭和六十年三月吉日  茨木市長 重冨敏之書


昭和24年、茨木川は河川敷の公用廃止いわゆる廃川となり、堤防を2m切り下げて、広くなった堤防の上面は整地整備して道路として使用することになりました。
昭和45年3月には元茨木川のあとに「元茨木川縁地」として、北は田中町あたりから南は高浜町までの全長約5kmをグリーンベルト化する計画がたてられ、年次的に推進され、緑地内には川幅1.5mのせせらぎや滝が造られ、また全区間にはソメイヨシノや各種のサクラ類のほかモミジ・カシ・クス・ヤマモモ・クロマツ・ウメなど約40種7万本が植樹されました。
さらに田中町に建つ「安威川茨木川合流の碑」から、南へ以前茨木川にかかっていた橋の名前や川から取水していた樋の跡にも石碑が建てられ、散策路としてジョギングとして、また春には桜見物として市民の憩いの場となっています。

天満宮 茨木市田中町7-37 田中橋跡
 
佐介樋跡 丹波橋跡 六軒町橋跡 寺の上の樋跡
高橋 茨木神社 茨木市元町4-3
寺町橋跡 柳の樋跡 宮田の樋跡
 
新庄橋跡 水尾池樋跡 あやめ橋跡
 
沢良宜東樋跡 沢良宜ひく橋跡
 
佐和良義神社 茨木市美沢町9-27 沢良宜東高橋跡

船頭の樋跡 沢良宜橋跡

道祖神社 茨木市高浜町1-48 小宮橋跡

高浜橋跡 新高浜橋跡

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