余野古城(よののこじよう) 余野村にあり。余野山城守の居城なり。








余野城趾(よのしろあと) 豊野町余野
明応年間能勢氏の余野山城守頼幸がここに築き、塁を字幣の木の丘に設け、その甫麓に館を構えた。
地黄城主・野間城主と併せて能勢の三惣領と云われた。
戦国末期、高山右近と親交があった山城守高綱は天正12年(1584)3月右近と戦い、敗れて城中で自刃。
城館共に焼失したという。



城跡全域に府立城山高校(2008年3月に閉校)が建っていた。





高山右近夫人のふる里(余野城案内)
高山右近夫人は今より400年位前の1561年(永禄年間)摂津余野城主黒田公の息女として余野城内の屋敷にて生まれた。
永禄7年(1564)当時大和の国城主であった右近の父高山飛騨守のすすめで黒田城主と家族と息子弟たちと家中53名はロレンツ修道士からキリシタンの洗礼を授った。
黒田城主の長女は3才で洗礼を受け名をユスターが与えられた。
10年後の天正2年(1574)ユスター嬢は高槻城主であった高山右近と高槻城内で結婚式を挙げた。右近22才、ユスター嬢は13才の時であった。
余野支城は以前シテノ木城とも言われ表門及び裏門と西堀などが残っていたが、今は学校となり当時の姿は見られない。
校庭西正面のあたりの山頂には余野本城跡が僅かに残っている。
この校庭の南正面の田の中には石仏がある。元村長室賀彦四郎氏等に依り現在大切に保存されている。
石仏の左肩には永禄7年本願道清と刻んだ文字が見える。
永禄7年(1564)とはここ余野城内に於いてキリシタンの集団洗礼が行われた年である。石仏はそのことを語ってくれるだろうか。
   高山右近研究会 責任者 奥田康雄



HOME > 巻之九 能勢郡
inserted by FC2 system