走落神社(はしりおちのじんじや) 切畑村にあり。『延喜式』に出づ。
ただし、島下郡に載す。この村の生土神なり。今走湯天王と称す。






藤森神社跡(ふじのもりじんじゃあと) 豊能町大円藤の森
所伝によれば、宇多天皇寛平元年(889)の創立で、邇邇芸命を祀る。
後に天照皇大神と少彦名命を相殿とす。
旧木代庄(大円・切畑・木代)の産土神。
後に天照皇大神を小玉神社に移し、少彦名命を走湯神社に分祀。
天正年間(1573~1592)に祭神を牛頭天王に改め、慶長年間(1596~1615)に地名の藤森神社に改称す。
毎年9月15日の百石祭には、馬場前で流鏑馬の神事、能楽があり、領主の崇敬も篤かった。
明治5年に村社に列し、明治40年8月15日児玉神社に合祀された。(大阪府全志)




藤森神社舊蹟碑 



旧藤森神社本殿 
享保6年の造営と伝える三社相殿構造で三間二面流造の本殿は現在走落神社の本殿に使われています。






走湯神社跡(はしりゆじんじゃあと) 豊能町切畑
旧切畑村の産土神で、明治5年村社に列したが、明治40年9月小玉神社に合祀された。

『摂津志』に「在切畑村今称走湯天王式載島下郡」とあり、『摂津名所図会』も「走落神社 切畑村にあり。『延喜式』に出づ。ただし、島下郡に載す。この村の生土神なり。今走湯天王と称す。」と記し、この走湯天王が島下郡の式内社「走落神社」であるという。
井上正雄氏は『大阪府全志』で、旧大円村の字藤の森にあった旧藤森紳社こそ式内社の走落神社であると説く。

文永3年9月に天照皇大神を小玉神社に、少彦名命を走湯神社に分祀したが、天正年間に織田信長が神社仏閣を破壊するので、祭神を牛頭天王に改めて破壊を免れた。慶長年間に地名の森を社名としたため、走落神社の本名が忘れられ、分祠した走湯神社が走落神社と誤認されるに至ったとする。
現在法性寺に置かれている石風呂については、昔ここに温泉が出た時に、地元の人が浴室を設けて、石の風呂で浴すと功験があったと伝えられ、少彦名命が湯を主ると古書に見えるので、走湯神社の祭神少彦名命と開係あるのだろう、と説く。




旧村社走湯神社旧跡地碑 昭和30年10月建之



豊能郡に鎮座している走落神社が嶋下郡式内社とされるのは、「思うに大円村はもと島下郡所属なりしも、中古郡界の錯乱に依りて当郡(能勢郡)に転入せしものならん。」と井上正雄氏は考察する。
地図上でも藤森神社が島下郡に一番接している。
吉井良隆氏も『式内社調査報告』で「現在の走落神社は、伝承によると分離した小玉神社へ再び合祀されたようであるから、本来の式内社への合祀ではなく、社名のみを走落神社に復活したもの」としている。




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