雪見亭古蹟(ゆきみていのこせき) 奥平野村にあり。
福原都うつりの時、平相国、ここにおいて眺雪亭を造らせたまふ古連迹なり。




雪見御所旧跡(ゆきみのごしょきゅうせき) 神戸市兵庫区雪御所町2-1  湊山小学校
平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊を見晴らす福原の地を領有し、ここに多くの邸宅を構えた。治承4(1180」年、政権の強化を図った平清盛が孫の安徳天皇を奉じて都造りをはかったのが「福原遷都」である。しかし、京都造りは中途で頓挫、半年で平安京に遷都したため実態としての都は完成しなかった。
『平家物語』などには平清盛が福原の地にいくつかの邸宅を持っていたことを伝える。そのひとつが「雪見御所」で、その名を伝える雪御所町に存在した可能性が高い。ただし町名のもとになった古い字「雪御所」の範囲は現在の湊山町南半を占める。西が石井川、東および北は天王川の西のほとりを北上し、そして西へと弧状ににびる古道により画される範囲になる。
南限は湊山小学校の敷地を北東隅から南西隅に横切る方向にのび、その南は「川原」という宇名になる。この範囲には一町(約108m)四方の屋敷地が収まる。当時の貴族の邸宅は広い屋敷地の北寄りに建てられるのが一般的で、南に庭園が広がる。したがって雪見御所の屋敷建物が存在するのは湊山小学校の敷地よりも北側ということになろう。
1986年に湊山小学校の校舎建設に先立ち行われた発掘調査(雪御所遺跡第一次発掘調査)で確認された石垣のひとつはこの南の字境に一致する。これは雪見御所の南を画する石垣、またはそれを世襲する宇境の石垣である可能性が考えられる。
雪見御所の北に安徳天皇が「福原遷都」の半年を過ごした「本皇居」=「平野殿」のあったこと、また清盛邸の近隣に子息宗盛邸のあった可能性が当寺の貴族の日記の記述などから知られる。葉窟調査によっても雪御所町の東にあたる上祇園町の祇園遺跡で平安時代末期の貴族の邸宅あとの庭園の存在が確認されている。古記録と発掘調査の成果から、この地に「福原京」の時期を中心とする平家の邸宅がいくつも存在することを推測することができる。
ここ「平野」の地はまさにその名の示すとおり「平」家の本拠があった「フィールド(野)」といえるだろう。

 
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