若菜調貢(わかなのみつぎ)菟原郡中尾村の人、生田の浦より若菜を採って禁裏に献る。七種のその一種なり。これを生田の若菜と呼ぶ。字多天皇の御時より始まるとかや。中頃、源平兵乱よりこの式例中絶しけり。文明年中、本願寺蓮如上人この辺経回の時、この旧例を申し上げ、再興ありて、今も臘月(しはす)二十五日には、例年生田川の東の浜より一町程沖の方、海底に生ふる若菜を、中尾の村民これを取って、同村の道場泉隆寺より、京師西六条東中筋花屋町仏照寺へ貽(おく)らる。またこの寺より鏡餅を添へて、本殿寺御門跡へ進上す。またここより天子へ献らるる事にや。
 『堀川百首』 旅人の道さまたげlこ摘むものは生田の小野の若菜なりけり      師輔
 『夫木』     問はねどもたがためとてか津の国の生田の小野にわかな摘むらん 経季
 『公事根源』云ふ、
 内蔵寮ならかに内膳司より、正月上の子日、若菜を奉るなり。寛平年中より始まれる事にや。延喜十一年正月七日、後院より七種の若菜を供す。また(村上天皇)天暦四年二月二十九日、女御安子(安子、藤原氏師輔公の女なり)の朝臣、若菜を奉るよし李部王(りほうおう)の記に見えたり。若菜を十二種供する事あり。そのくさぐさは、若な・はこペら・苣(ちさ)・せり・蕨(わらび)・なづな・あふひ・芝(しば)・蓬(よもぎ)・水蓼(たで)・水雲(イに薊)・松とみえたり。この松の字の事、白川院の御時、師遠に御尋ね有りしかば、若松と書きてこほねと読むなり、もしこの事にて侍るかと申しき。松をそへて奉る、さてはひが事なりと上皇仰せられ侍りき。尋常は、若菜は七種の物なり。薺・はこべら・芹・菁(あをな)・御形(ごぎょう)・すずしろ・仏の座などなり。正月七日に七種の菜羮(さいこう)を食すれば、その人万病なし、また邪気をのぞく術侍ると見えたり云々。
 『源氏』若菜巻、
  小松ばらすゑのよはひにひかれてや野べのわかなもとしをつむべき  
按ずるに、生田の若菜は磯菜なるペし。『八重垣』に日く、磯辺の若菜なり。十二種の中に水雲(もずく)あり。海藻の類も磯菜ならんか。
 『新古今』   けふとてや磯菜つむらんいせ島やいちしの浦の海士の乙女子   俊成


史蹟 若菜の里阯
平安時代から村人が生田の小野で若菜を採り、この寺から宮中の七草粥に用いるすずしろ(大根)を献上していた。


泉隆寺(せんりゅうじ) 神戸市神戸市中央区中尾町11−21
浄土真宗本願寺派 超音山
僧西順が弘長2年(1262)真言宗の道場として創建。
文明3年(1471)蓮如上人の教化に依って住職圓性が帰依し、神戸地方の真宗寺院の発祥となる。若菜寺とも呼ばれた。

蓮如上人御像 蓮如上人腰掛石
旅人のみちさまたげは津の國の、生田の浦の若菜なりけり

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