綱敷天満宮(つなしきてんまんぐう) 西須磨の浜辺にあり。菅公筑紫へ謫遷の御時、この浦にて風波あらく、しばらくここに上らせたまふ。浦人、網の縄を円座とし敷きて座を設けぬれば、安居したまひ、この浦の風景を賞じたまふ。その御像を摸して神体とし崇仰し奉る。
一名綱巻天神、あるいは綱輸天神とも称す。
 家集に日く、
     障子の絵に須磨の浦の歌書きたるに神社に寄せて行浪の高ければ、たよせに御てくらたてまつる所をよめる
  たよ世とはおもはざらなんわたつ海の祈るこころは神ぞ知るらん 恵慶法師
  白波の色にてまがふみてぐらをたよせにうけよ神のこの神    同
世に『須磨記』といふ書あり。その中に須磨にて橘季祐といふ者の家に立ち寄らせたまふ事を記せり。これは今の村長、前出氏が家になんありけるとぞ。そもそも、この『須磨記』といふは、菅神の御作とて世に久しく伝はれり。あるが日く、これら、菅公の御作にはあらず、後世の作なりとぞ。その其偽の論は、後考を俟ちて、ただ文章のみやびやかなるを賞じて、ここに引書するのみ。
『須磨記』
 昌泰ふたはしらにあたれるつちのとのひつじの年二月中頃、ゆくりなきみことのりをかしこまりておほいもの申すといへるさへ身にはおほけなくぞおもふべきを、うちのおとどをなんをちにんとに思ひなして。右のおとどといへるいひしらぬ。高根の雲にまう昇れとの宣命の、いみじうもあさましきまでの、わいへんにあまくだ れる事よ。みぎんのちかきみまもりのつかさのかみまで、もとのごとくにうけはりて、ことのとりかさねたまふへる事のかしこまりをなん。すべて家を起こし名の後の世のすさみにもと、立ちのぼせん事は人の親につかふまつれるはねぢけたるといへど、たれしかその本意をいとはんや。臣が身のおきどころなき事のいみじき。いときなき邪をうしろにおひけんむかしめきたるひじりといへど、そのとみうらやむべくもあらず。しばしばのたから大いなるふねにうづたかうしてはるかなる海にうかぶと聞こえLもいかにぞや。このきはに思ひかけんにはにげなかるペし。文章得業の両生など家のめいぼくと、かけまくもかしこくも、そのつかききはめし事をおもへほおもへば、今のさもにはおのlづから家人めくものをさへ、かうやうのつかさにはかたをならべ、ひざを入るべきになん。これひたすら身のいさをしの示かるきぎみきざみに、せめて道々ものせざらんにやは。おほんいちじんの御めぐみ、四すみの浪をひたし、大空の姐、千いろの底のいろくづといへども、おのがこころを得、とうろをきはむる事の御いたり、ふかくおはする御代にあひ奉る事のいみじきによてなるべし。さるについてよ夜中の暁のいろわけなくまうのぼる事のしげくしてなん。つかふまつる道は、かしこまりいひしらすばかりなしといへども、うつはのふようなる事のあさましさ、夢うつつのたがひめもいへばさらなりや。東の雲は曙けなんともせざるにも、衣裳をさへさかしまだててまうのぼる事、から国の博士の作りしかたの心はへ、いくあかつきかは思ひ忘るる事あらんとやする。されども九五象はたれしか上中下のたがひめかあらん。臣が身この象に立ちのぼりて、あやふき事のまがきのうちよりいづる事、人の思ひさかしらふことは更にもいはず。訳の御かへりみのほどは、すべて身のつたなくしぞくべき際はしらずしも侍らねども、聖の御代に身をほふらさんも、かしこまりまうけはりがたくてなんおもひのとめ侍るに、ことしかんな月の始めつかた、第七の御方、臣が家に紅葉のえんにことよさせおはしてなん立ち入りたまふに、思ひがけぬさいはひとらんとす。なきはは、はるかにおもひもよらず侍れども、立ちのぼりぬるつかさきはめぬる幸を、この事とうれしみ思ひものして、けいかい家のうつはものといへど、うつはりの顔にまじへて、とばかり弄し侍りけり。左のおとどの常にきしきだもて物々につけて、目をとめ眉をそばだつる事の、おはやけならぬにはあらめやは。余所ながらいひしらす身のつみよこさまごとに、うへにもきこしめいたりや。きりやうけばらせたまふにはあらざらんを、人のさがにくき世のならはしにとり弄するたらめ。たつさかしら人も、上中下とつどひぬるになん、七のつみ数へあげさせたまへ。弾正の声のみやより、明法博士してこらさるる事のかしこまり、むねとるべき人臣の家ににげなくぞあるべきや。かうかはれる世のあらましいかならん、世のためしにも成しくださんを、つらつらおもふも、いはけなきよを、思ひはるけんぞかなしかるべきわざなるべし。されど、こころに息ふふしぷし、あまのかぐ山のますみのかがみにかけものして、そのあがなひ申しきこえたてまつれる、うへにもおぼしゆかにけるにや。その後は、ありしやうにこそ物したまはざりけれども、ついでついでの御かへり萩は、きりげなきめいぼくなりけり。九五の幸は、あらましに思ひまうけためれども、神ならぬ身のつらさよ、とみの事のやうにむわいたうくるしかりけり。高辻のたちをかりのうつろひ処に思ひものして、この頃の事に心はなれし、つかさしぞくやうになんしてうつろひはべりし。身のしたがふをなんは、くらの文はこ、二しなのつくゑもの、すずりやうの外、さらに侍らざりけり。つねに楊梅の宰相のぬしをなんかたらふ、あそびがたきにもとゆきかよはしめたり。年頃のから歌やまとうたの、ながきみじかきまでを、かたみにいひえらびて、まくらごとに手づから弄したりけるを、むかし、いつの月日にやあるべし、つづりたるからうたの、今やうの身に思ひあたれるもありで、いとしもをちなる事は、かかる身のゆくすゑをしらざりけりと思ひさうするも、あさましきまでの心おとりならんやは。かりや姫とものするは、家のむまごのいとけなきなれど、かしこくも文字かぞへわたり、から歌をすぐれ てくちにもずんじ、手してもかきしるいたれば、我がむまごながらも、この世の人ともおぼえずなん有りけり。うへの御心つかひの、わざかへらせたまふ事はいとかしこければ、ものしつくさず。清つらのぬLがさくにとくきみがかんは、おもてはさるにて、君の御おもと人のよからざらんを、外のつかひわざたまふはり、すぐれてすすまんを、おはやけせんじたてまつらせんやほ。いはけなきは、かんなといふ物を、女もじにつらねできへ、みづからもとどこはるべきを、鳥のあとのむしゑりたるにのりたらんを、はしりがきとはせてうせん事のたぐひあるべからんにつけて、をまなき心のなみだは、やみのうつつなりけん。自太夫といへる男、伊勢より年々とひ来たり、我が家のかたはへなる宿をかりのやどりどころとなんせLに、このごろまた例のちぎりたがへずして来たれるも、わがうつろひ所をとみのの事のやうあやぷめて、おなじすみ家をしめなんとてしたしみょれり。されど、うつろひどころにはおもひはばかる事もありて、醒井の常楽院の僧房にうつろはせたり。ことしも月ゆきはしうつろひて、春の草緑をつけ、庭鳥暖を報じて、自大寅が、閑流石池に帯す、とものせLも、まのあたりにずして、つたなきはらわたをあたためずといふに、このごろむまごの姫なるここに来たりて、やほしらのうちなぐさめぬるこの句をたたう紙に再きてと物しせめけば、しるしにとみにあたへぬ。やうやう花楯にまれにして当よりも旬ひはなつかしくて庭につもれるに、また来む春の名残、老のまなじり雷をうかべぬるに、例のむまごなるふところをたたう紙に調ぜしを、とうでてわらはしきまなこにも、おなじすぢにうかべてなんかはかず、あめがしたまつりこつべき身の、いかでかぞ、よもぎふのすみかに出づらかはづと、床をあらそふ事のほいに、ことやうなる事は、世の中なにしかかはりあらざらんや。夏はいとどせはき柱居のいぶせきに、ただ宰予が禰心のすさみにのみ、三伏をしのぐばかりなりけり。かくして秋風ふきわたりて、井梧万天の秋と吟じて、御簾のただれに萩の糞のうちあてたるも、やうかはりたるうつろひどころ、ここにはきちあるやうにおぼえぬ。椎のなきわたりたる霧間の夕べ、碑の遠くうちかよひたる五条あたりの家ざとも、夜寒のほど思ひやり、かなしき事、かうやうすくせには、いとしもふかうおもひたどりけり。九月の末つかたより、改官の解状くだりぬと、いつくしもなき人のさへづりありてなん。これらは身のおこたり、天道のしかあらしむる事もかしこくも思ひとりゐたるに、霜月の中のもちの日、解状まことにくだり、左大弁なにがし、弾正甲のしりへに供して侍るといひつたへ来たりぬれば、やがて本家に立ち帰りて、そのかしこまりをうけたまはるに、太宰権の帥にうつろふべきとのみことのり、まさしくもおほしくも侍れば、第ささへして、いとどうやうやしうしぬ。ことしはしはせのあらし浪の立ちゐもむくつけからんを、つとめての春に、かの府にまかるべきとの弾正尹の心づかひあれば、それにおこたりもつなきやうなれども、ことしはそのままもとのうつろひ所に立ち帰りて、春をまつ間の心はへ、ますらをの本意きえたるやうに、棟梁のうつはかくべき身ならぬ事、心肝にもほぢかましくぞ日数を送る事よ。年すでに膿をせめ来て、おきそへたるいただきの霜も、ここにはとけやらずなん、さすらふる日もむ月の二十日と解状さだまりぬ。そこら家門のむねむねしからぬ、なにくれとつどふるもかしがましくやはある。帥の正記など官符にそへて弾の忠 もて来たりぬ。日ごろたうとみける観世音の、西朱雀なる正像寺のかたはらにおは するに、ふさかつのぬしして申し奉れる。 九重の春をへだててさしもぐさもゆるかひなく世をやつくさんとかへりごちてなん、かしこまりのあさましき事、おほなく伝へぬ。第七の御子も、 同じ外さくの罪にふしたまふて、靭かけたてまつると聞こえLに、貧家の娘つかふ まつりし事の、になき御不幸をかなしみ思ふに、むねそこらいたましく、良陽が安 座の椅子もゆかしうおもひよりぬ。からうじてむまごのひめむかへんと、家門こぞりていへは、なみだしどとにものし、袖も袂もわいがたけらし。さはいへど、はた してけふを離別の日となしなんとか。ことし、いかにぞや、かみLもくゆる象をも のすべきならねども、このいで立つ事のほい、やうかはれる旅にもよほさるるも、 うつはものの拙き事おほひて、空になんうたへ事しばしはすと、孫元卿がいひためるをなん、雁旅のすさみとして、すでにむつき二十日の寅四ツばかりになん、かど でせよとて、かどのをさのつたなきらせめきて山でたつる事よ。かりやひめ白太夫 のぬLを、須磨といふ所までとつれなひてなん。あとにはそこそこのものにつたふ、 君が住む宿の木ずゑをゆくゆくもかくるるまでにかへり見しはやそれより淀川尻などいふ河瀬道にもたどりぬれども、おもはぬ道に思ひたつ事を なん、うろくずのあみのめもれぬ心はへなどくちにとなへぬ。きたの庄といふ所に てひるのかれいひしてなん、やうやく都の山もみえずなりぬる事となげくことしはしはなり。 立ち帰りいつしみやこの春霞よしこのたびはへだてあるとも なみはやの国なみはやの浦をなん、今なにはのみつなど、ことわざめきてをしゆ るに、そこらつどへる舟数いひしらずあまたたびなるに、教が乗る舟にはせそうけ うまんなどはしらせて、もののふこたびははるかになりて、五手十手におしわけたり。武庫の浦にて雨雪にまじり降りよこたへぬるに、四方の山かしこの議らも心あてやみをたどりぬ。かりや姫、ここち例ならぬよしをものするに、典薬史生和気の 垂氏がものせし舟も跡につどひぬるをまねきてなん、薬の事まかなひて、そのやま ひっとめてはおこたりぬれば、わたつみの心はへとりぬるから歌をなん、ひとつふたつ朗詠してゆく。あほぢ島もはるかに見わたさるるに、はやはしらせし舟も、須磨の関ちかづけてなん、浪山をおこし、くじらなどいふいろくづのをさもここにあ らはれぬべく、おどろおどろしうかみなりて、まづこの浦にと、からうじてつくに、 いかりといふものをさへいづちとられて、あやふき事たとしへなし。ここにつきぬる目は、はや夕日西にかがやくとしもは侍らねども、なみのひかりもはれゆくやうなれば、なにくれとせしままに茄ちかうなり、そこら上野の岡といふところ、なに がしの寺あるよしにて、鐘さへかへりて、耳頭うれひをもよほせり。つとめてそこ のせうかけたる橘季祐といふをのこ、こころざしから歌にありて、やつがれがかかるよこざまなる旗もかへてはきそある事など作りめくに、
  波頭雁路霞    波頭雁路の霞
  万頃涙潺諼    万頃涙潺諼たり
  争識播土沢    いかでか識る播土の沢
  今宵辞雲仙    今宵雲仙を辞す 
くちづからずしてあたへぬ。空のけしきもはれぬれば、すでにあら海のよそひきはまれば、かりや姫をなん、吟のとなる右衛門のさくわんにものして、みやこまでかちよりおくり返しぬ。さだめなき身ふたたびのたいめんはかりがたきむかき附けぬべきに、筆みじかければものしぬ。
 奥書に日く、この一書、加州金沢川島氏より到来して写しとりぬ。
    尤殊勝之御記也
     右壺井氏以朱添文字令便覧也




網敷天満宮(つなしきてんまんぐう) 神戸市須磨区天神町2-1-11
網敷天満宮由緒
延喜元年2月菅原道真公九州へ御左遷の御途次、海上風波高く航しかねて、此地に上陸し給い、里の浦人等は網の綱を丸めて円座とし座を設けました。
道真公はここに安居し給い、暫らく旅の疲れを休められ、須磨の風光を賞でられた。菅公薨ぜられて後76年目の天元2年、時の須磨人等がその御像を模し祠を建てて、お祈り申上げたのが当社の創始である。
当天満宮は日本25社の内第14番の霊社にして、特に学問の神として崇敬厚く、神威赫々として庶民の信仰を集め、霊験又顕著であります。



拝殿


本殿 祭神:菅原道真公


厄神社


稲荷社



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