遠失浜(とほやのはま) 和田御崎をいふ。
建武二年五月、尊氏公筑紫より上洛の時、官軍本間孫四郎重氏、利田御崎より尊氏の軍船へ遠矢を射て誉をとりしによつて、今にこの所を遠矢浜といふ。
『太平記』日く、
明くれば五月二十五日、辰刻に、澳の霞の晴れ間より幽かに見えたる船あり。漁に帰る海人の、淡路の迫戸を渡る船かと、海辺の眺望を詠めて、塩路はるか見わたせば、取梶・面枕に掻楯掻いて、艫舳に旗を立てたる数万の兵船、順風に帆をぞ挙げたりける。煙波渺々たる海の面十四、五里の程に、漕ぎ連れて、舷を輾り、艫舳を双べたれは、海上にはかに陣地に成つて、帆影に見ゆる山もなし。あな震し、呉魏天下を争ひし赤壁の戦、大元宋朝を滅ばせし黄河の兵も、これには過ぎじと目を驚かして見る処に、また須磨の上野と鹿松岡・鶴越の方より、二つ引両・四目結・直違・左巴・倚かかりの輪達の旗、五、六百流れ差し連れて、雲霞のごとくに寄せ懸けたり。海上の兵船・陸地の大勢、思ひしよりも震しくして、聞きしになほも過ぎたれば、官軍御方を顧みて、退屈してぞ覚えける。されども、義貞朝臣も楠正成も、大敵を見ては欺き、小敵を見ては侮らざる、世祖光武の心根を写して得たる勇者なれば、少しも機を失したる気色無うして、まづ和田の御崎の小松原に打ち出でて、閑に手分けをぞしたまひける。一方には脇屋右衛門佐義助を大将として、末々の一族二十三人、その勢五千余騎、経島にぞ扣へたる。一方には大館左馬助氏明を大将として相順ふ一族十六人、その勢三千余騎にて、灯炉堂の南の浜に扣へたる。一方には楠判官正成、わざと他の勢を交へずして、七百余騎湊川の西の宿に扣へて、陸路の敵に相向ふ。左中将義貞は総大将にておはすれば、諸将の命を司つて、その勢三万五千騎、和田御崎に帷幕を引きて罄らる。さる程に、海上の船その帆を下して磯近く漕ぎ寄すれば、陸路の勢も旗を進めて、相近にぞ成りにける。両陣亙ひに攻め寄せて、まづ澳の船より大鼓を鳴らし、時の声を揚げれば、陸路の搦手五十万騎請け取りて、一同に声をぞ合はせける。その声三度畢れば、官軍また五万余騎、楯の端を鳴らし、胡簶を敲いて時を作る。敵御方の時の声、南は淡路・絵島崎・鳴戸の澳、西は播磨路・明石の浦、東は摂津生田森、四方三百余里に響き渡って、まことに天維も断えて落ち、坤軸も怖くばかりなり。さる程に、新田・足利相挑んで、いまだ戦はざる所に、本間孫四郎重氏、黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紅下濃の鎧着て、ただ一騎、和田御崎の波打際に馬打ち寄せて、澳なる船に向つて大音声を挙げて申しけるは、将軍筑紫より上洛あれば、定めて鞆・尾道の傾域ども多く召し具され候らん。その為に珍しき御肴一つ推して進せ侯はん。しばらく御待ち侯へと云ふ儘に、上差の流鏑矢を抜いて、羽の少し広がりけるを鞍の前輪に当ててかき直し、二所藤の弓の握太なるに取り副へ、小松陰に馬を打ち寄せて、浪の上なる鶚の、己が影にて魚を驚かし、飛びさがる程をぞ待ちたりける。敵はこれを見て、射放したらんは希代の笑ひかなと日を放たず、御方はこれを見て、射当てたらんは時に取っての名誉かなと、機を攻めてぞ守りける。はるかに高く飛び挙がりたる鶚、浪の上に落ちさがりて、二尺ばかりなる魚を主人のひれを爴んで澳の方へ飛び行きける処を、本間、小松原の中より馬を懸け出だし、追様に成つて懸鳥にぞ射たりける。わざと生きながら射て落とさんと、片羽がひを射切つて、真中をほ射ざりける間、鏑は鳴り響きて、大内介が舟の帆柱に立ち、鶚は魚を爴みながら、大友が舟の屋形の上へぞ落ちたりける。射手誰とは知らねども、敵船七千余也には舵を蹈んで立ち双び、御方の官軍五万余騎は、汀に馬を扣へて、ああ射たりや射たりやと感ずる声、天地を響かして静まり得ず。将軍これを見たまひて、敵わが弓の程を見せんとこの鳥を射つるが、此方の船の中へ鳥落ちたるは、御方の吉事と覚ゆるなり。何様、射手の名字を聞かばや、と仰せられければ、小早河七郎、船の舳に立ち出でて、類少なく見所有りても遊ばされつる者かな、さても御名字をば何と申し侯やらん、きかまほしやと問ひたりけれは、本間、弓杖にすがりて、その身人ならぬ者にて候へば、名乗り申すとも誰か御存知候べき、ただし弓箭を取りては、坂東八箇回の兵の中には名を知りたる者も御座候らん。この欠にて名字をば御覧候へと云ひて、三人張に十五束三伏ゆらゆらと引き渡し、ニッ引両の旗立ちたる船を指して、遠矢にぞ射たりける。
その欠、六町余りを越えて、将軍の船に双びたる佐々木筑前守が船を箆中過ぎ通り、屋形に乗りたる兵の鎧の草摺に、裏をかかせてぞ立つたりける。将軍、この矢を取り寄せ見たまふに、相模国住人本間孫四郎重氏と、小刀の先にて書きたりける。諸人この矢を取り伝へ見て、あな懼し、如何なる不運の者がこの矢先に廻つて死なんずらんと、兼ねて胸をぞ冷しける。
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