前武蔵刺史平知章墓(さきのむさしししたひらのともあきらのはか) 尻池村の北上、街道の南側にあり。 
討死の所は北の山手なりしが、享保年中、並河氏『摂津志』編集の時ここに巡行し、かくのごとく石表を立てて、父に代つて討死したまふその美名を賞し、西海道往還の側、今の地に移す。往来の行人に家臣監物太郎とともに、その忠孝を嘆ぜしめんが為なりとぞ。
『平家物語』云ふ、 
生田森の大将軍、新中融言知盛卿の御子は、武蔵守知串、侍に監物太郎頼方、主従三騎に打ちなされ、汀の方へ落ちたまふ処に、源氏の武士児玉党と覚しくて、団扇の旗差したる者が十騎ばかり、鞭鐙を合はせて追つ駈け奉る。監物太郎は究竟の弓の上手なりければ、取って返し、まづ真つ先に進んだる旗差が頸の骨を兵ど射て、馬より倒に射落とす。その中の大将と覚しき者、新中納言殿に組み奉らんとて馳せ双ぶる所、御子武蔵守知章、父を討たせじと中に隔たり、押双べ、無手と組んでどうと落つ。取って押さへて頸を掻き、立ち上がらんとしたまふ所に、敵が童落ち合ひて、武蔵守知章の首を取る。堅物太郎落ち重なり、武蔵守を討ち奉りし敵が童も討つてげり。その後、矢種の有る程射尽くし打物抜いて戦ひけるが、弓手の膝口をしたたかに射させ、立ちも上がらで、居ながら討死してけり。この紛れに新中納言知盛卿は、そこをツト逃げ延びたまひけり。  



平知章之墓
この附近は、もともと小平六池といわれていた。 寿永3年(1184)源平一の谷の合戦で討ち死にした平通盛、源氏の木村源吾重章同じく猪俣小平六則綱らの碑が、この附近の西国街道に面してあった。
後、長田区明泉寺付近で討ち死にした平知章の碑をここに移し、敵味方のへだてなく源平勇士の墓としてあわせて弔った。

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