[王取][王磨]海(すまのうみ)
   『玉木』  すまの海釣せし人もけふよりや千とせの松の下にあたらん    恵慶法師
 さればすまのうらは、むかしより月の名どころにして、紫氏も中秋のー月に須磨赤石の巻より書き初めたまひしとかや。
 かの巻(『源氏物語』)に、
 こよひは十五夜なりけりとおぼし出でて、殿上の御遊び恋しく所々ながめたまふらんかしと思ひやりたまふにつけても、月の顔のみ守られたまふ二千里の外の故人の心とずしたまへる。れいの涙とどまらずとて光源氏、  
  見るほどぞしばしなぐさむめぐりあはん月の都ははるかなれども
  これよりまへに、また光源氏、
  あまがつむなげきの中にしはたれていつまですまの浦とながめん
 心づくしの秋風に海は少し遠けれど、行平の中納言の関吹きこゆるといひけん浦浪よるよるは実にいともかうきこえて、またなくあはれたる物はかかる所の秋たりけり。(中略)琴を少しかきならしたまへるが、我ながらいとすごうきこゆれば、ひきさしたまひて源氏君、    恋ひわびてなくねにまがふうらなみは思ふかたより風や吹くらん
  
せんざいのはな色々さきみだれ、おもしろき夕ぐれに海みやらるる廊に出でたまふてたたずみたまふ御さまの、ゆゆしうきよらなるに、ところからほまして、この世のものとも見えたまはず。白き綾のなよよかなるしをん色など奉りて、こまやかなる御なほし、おびしどけなくうちみだれたまへる御さまにて、しやかむに仏の弟子となりて、ゆるらかによみたまへる、まだ世にしらすきこゆ。沖より船どもの諷ひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかにただちひさき鳥の浮かべるLと見やらるるも心細げなるに、雁のつらねて啼声かぢのふ日にまがへるを打ちたがめたまふて、御なみだのこぼるるを、かきはらひたまへる御手つき、くろき御ずすにはえたまへるは、故郷の女恋しき人々のこころみなさざなみにけり。源氏君、  はつ雁はこひしき人のつらなれやたびの空とふ声のかなしき
 恩賜の御衣は今ここに為り(菅公太宰府にての詩の句)とずしつつ入りたまひぬ。御ぞは誠に身はたたずかたはらに置きたまへり。(中略)五節の君は綱手引き過ぐるも口をしきに、琴の声風につきてはるかに聞こゆなど見えて、御せうそこ聞こえたり。 五節君、
  琴の音にひきとめらるる綱手縄たゆたふこころ君しるらめや
 源氏の君の返しに、
  こころありて引手のつなのたゆたはば打ち過ぎましやすまの浦なみ
 また、やよひの朔日にいてきたる巳の口、けふなんかくおぼす事ある人はみそぎしたまふべき。(中略)陰陽師めしてはらへせさせたまふ。にはかに風ふきて出でて、空もかきくれ、ひぢかさ雨とかふりきて、波いといかめしうたちて、神なりひらめく。(中略)いよいよなりとどろきて心ぼそく思ひまどふに、君はのどやかに経うちずしおはす。幕れぬれば神すこしなりやみて、風ぞよるもふく。おほくたてつるぐわんのちからなるペし。
これを近頃、明石の文学、梁田邦美が詩に、
 帝京花萼此瓢零  帝京の花萼ここに瓢零とし
 璃闥風光入夢青  璃闥の風光夢に入りて青し
 南浦寒烟燐夜月  南浦の寒地夜月を憐み
 北山芳草憶春庭  北山の芳草春庭を憶ふ
 驪駒留別故人去  驪駒留別故人去り
 綵鷁伝歌仙客経  綵鷁歌を伝ふ仙客経
 首丈崩濤天潑墨  百丈の崩涛天塁を潑す
 可堪雷雨撼茅亭  堪ふペし雷雨茅亭を撼すに
驪駒の事は、葵の上の兄、三位中将須磨に来りたまひて、源氏の君の謫居を訪ひまゐらせられしが、帰京の時、源氏の君、驪駒たてまつりたまふといふ事、すまの巻に見えたるを作れるたり。  ○『河海抄』の序に云ふ「光源氏は、一条院の御時、寛弘のはじめに出来て、堀川院の康和の末に弘まりけり」と云々。同『抄』に云ふ「『源氏物語』のおこり説々ありといへども、西宮左大臣、安和二年、太宰権帥に左遷せられたまひしかば、藤式部、をさなくよりなれ奉りて思ひたげきける頃、大斎院(選子内親王、村上女十宮)より上東門院へ、めづらかたる弟子やはべるとたづね申させたまひけるに、『うつほ』『竹とり』やうの古物語はめなれたれは、あたらしくつくりいだして奉るペきよし、式部におほせられけれは、石山寺に通夜して、この事を祈り申すに、をりしも、八月十五夜の月湖水にうつり、心のすみわたるままに物語の風情空にうかびけるを、わすれぬさきにとて、仏前にありし『大般若』の料紙を本尊に申しうけて、まづ、すまあかしの両巻をかきとどめけり。これによりて須磨の巻に、こよひは十五夜なりけりとおぼしいでて、と侍る。後に、罪障懺悔のために『般若』一部六百巻をみづから書きて奉納しける、今にかの寺にあり」と云々。光源氏を西宮左大臣になぞらへ、紫上を式部が身によそへて、周公孔子の聖語をつらね、李白・杜子美・白居易などの風流を湛へ、在納言・菅丞相の御ためしを引きて書き出だしけるなるべし。その後、次第に書き加へて、五十四帖になして奉りしを、権大納言行成に清書せさせられて斎院へまゐらせられける。また云ふ、誠に君臣の交、仁義の道、好色の娘、菩提の縁にいたるまで、これをのせずといふ事なし。そのおもむき、『荘子』の寓言におなじきものか。言葉の妖艶さらに比類なし。一部の中に、柴上の事をすぐれてかきいでたるゆゑに、藤式部の名をあらためて紫式部と号せられけり。 一説に云ふ、藤式部の名、幽玄ならずとて、後に藤の花の色のゆかりに、紫の字にあらためらると云々。初め、一条院御覧有って、不可説の的なり、凡俗の所為に非ず、式部は『日本紀』をこそよくみたりけれ、と仰せられLより日本紀御局と人々賞しけるとぞ。同じくすまの巻に、 内侍のかみの御もとに、れいの中納言の君のわたくしごとのやうにて、中たるにつれづれと過ぎにしかたの思ふさまへいでらるるにつけても、源氏君、こりすまのうらのみるめもゆかしきをしはやくあまやいかがおもはん 『八雲御抄』云ふ「こりすまの浦といふは同所なり。ただ、別なるやうにいふ人もあり」と云々。こりすまとは不慾と書くなり。まの字心なし。須磨の浦にいひかけずとも。また日く、こりすまのうらなど云ひかけたるは、こりず住むと云ふ心に、よみかなへり。すまにかぎるべし。ただこりすまとばかりほこりぬ事なり。いづくにも読むベし。
  いたづらに千束朽ちにし錦木のなほこりすまに思ひたるかな
『続古』 旅人は袂涼しくなりにけり関吹きこゆる須磨の浦風   在原行平
『花鳥余情』に「関吹き越ゆる須磨の浦風の歌は『壬生忠見が集』に侍るなり。行平中納言の歌のよし、この物語にのせたり。それを『続古今』に源氏にもとづきて、すなはち行平の歌と入れたる。たしかなる忠見が歌にて侍り。かやうの事は、いかな るかしこき人の上にも、漢家本朝ためしある事なり」と見えたり。『源氏物語』にしるし、また勅撰に行平とのせられたれは、それより後の世、行平と定すりたるにこそ。
 かうやうに文苑多く、古詠かずかずあり。そのうへ、むかしょり騒人墨客ここに来たりて、この浦の風光を賞じけるも、また多かりき。されは、年歳累りて、名どころも廃して、滄海三たび桑田となるの習ひ、ただ土民の口称にのみ残りき。春の曙には、礒馴松の色うるはしく、秋の月は名にしおふこの浦の景勝なれば、むかしも今も変はらずとぞ見えし。  

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