須磨の関の由来 平安末期の歌人源兼昌が「淡路島かよう千鳥の鳴く声にいく夜寝ざめぬすまの関守」と詠じ、それが小倉百人一首にとり上げられた。市バス須磨駅前の停車所から東方100m暗きょになってしまった千森川と、旧西国街道の交叉する地点に明治初年土中から掘り出されたという1m余りの石標がある。この碑面の出土地点からみれば今の関屋跡といわれている関守稲荷神社の地点とは大分はなれていて、少なくとも千森川の東側にかっての関屋跡(櫓台)といわれるところが一時期あったということになる。 「紀聞集」に第37代天皇の時置四境関鈴鹿の関は在近江伊勢逢坂関山城近江境竜田関在大和河内境須磨関摂津播磨境と書かれているが、また別書に天下三関を大宝律令に定められているのが「伊勢鈴鹿の関、美濃不破の関、越前愛発の関それについで重要なものとして「摂津の関」「長門の関」と書かれている。しかし須磨の関がいずこにあったかと言うと諸説まちまちである。又海関であったか陸関であったかも不詳である。海陸両用であるとの説もある。 須磨観光協会 |
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