上野山祥福寺(しようふくじ) 西須磨上野にあり。街道より松原二町を経て橋あり。
それより二王門に至る、風流の勝地なり。古義真言宗。
本尊聖観音 座像長三尺五寸。和田御崎の海中より出現。
護摩堂 本堂の東にあり。不動噂を安す。
鎮守祠 熊野権現・玉置権現・弁財天を祭る。
神功帝釣竿竹 本党の乾にあり。漢竹を樹ゆる。生田社にもあり。
義経腰掛松 本堂の西にあり。
馬盥額 中門に掲くる。上野山と書す。
二王門 金剛力士の二天を安す。運慶・湛慶の作。
十王堂 当山入口にあり。
什宝 教品あり。大概をここにしるす。
敦盛赤旗名号 法然上人筆。為敦盛空顔隣清菩提書之、源空。脇に和歌あり、音寿丸世にこそすまでたえいりて弥陀の蓮にともに生まるる。
保呂衣名号 蓮生法師筆。脇に和歌あり。法の水すみと硯で書きおくも心行具足阿弥陀仏力。
敦盛幼少手跡 題庭の雪 音寿丸。よしやただとはれてもまたなぐさまんおのれ跡なき庭の白雪 寄松祝言 音寿丸。みどりなる松に千とせの色みせて久しかれとや軒の山風。 敦盛画影 熊谷直実筆。
敦盛鎧 高麗笛 学祐僧正作。
青葉笛 弘法大師の作。ふかねども音にきこえて笛竹のよよのむかしをおもひこそやれ。
寺説に曰く、当山の宝物は貞享年中、江府芝宝蔵寺よりここに胎り納めしとぞ。
また、傭藩、常山先生『東行筆記』に日く「今須磨寺に敦盛の笛とて伝へたれども、笛も父経基の方へ送り返しける事『盛衰記』に見えたれは、あらぬ贋物にぞ有るべき」と書かれたり。すべて寺院にはこの類多し。
若木桜制札 弁慶筆
     須磨寺桜
この華江南の所無なり、一枝折り盗むの輩においては、天永紅葉の例に任せ、一枝を伐らは一指を剪るペし。
   寿永三年二月日
 この花江南とは梅の制札なり。『詩話』日く「汀南に在り、梅花一枝を寄せて長安に詣らしめん」。また云ふ「江南何れの存る所ぞ、いささか贈る一枝の春」。また云ふ「北人江北を望んで隴頭の梅を見ず」。しかるときほ、この制札、箙梅などにありたし、若木桜の制札といふは、弁慶の大いなる麤なるベし。また所無も所勅なり。弁慶は三塔にての博識たる人には似合はざるベし。 嫩木桜(わかきのさくら) 本堂の前下段の地にあり。『源氏』須磨巻の言葉によりて号けて樹ゑ置きしなるペし。
 須磨巻に云ふ、
  すまには年かへりて日ながくつれづれなるに、うゑしわか木の桜ほのかにさきそめて、空のけしきうららかなるに、よろづのことおぼし出でられて、うちなきたまふなりをり多かり。二月二十日あまり、いにし年京をわかれし時、心ぐるしかりし人々の御ありさまなどこひしく、なでんのさくらはさかりなりぬらん。(下略)  
    家 集    桜花たが世の若木ふり捨ててすまの関屋の跡うづむらん   定 家
それ当山は浪速を去る事十有余里にして、須磨里大悲の聖跡たり。
後には群巒を擁し、前には潮汐を湛へて緑波天に接し、漁舟商舶あるいは王者の楼船来往し、簫鼓の音棹歌の声、白鴎鴛鴦礒の波に見えかくれ、その風光妙にして筆舌にも及ばず。むかし、光孝天皇の御時、海中夜毎に光有って雲端を照らす。漁父網を下しければ栴檀木の観音を得たり。すなはち小宇を建ててこれを安置す。その霊応いちじるくして祈れば功験あり。信ずれば示現あり。ここによって朝廷に達し、仁和二年文鏡上人に勅して宝殿を営ず。丹青爛絢として林岳に照映し、つひに梵刹となる事今に至って八百余歳なり。そののも久寿の頃源三位頼政ここに帰依し、殿堂支提鎮守等を重修して煥然として一新す。ここにおいて山川色を増し、霊感ますます熾んなり。世に須磨寺と呼んで、往来の貴賎ここに詣せずといふ事なし。






須磨寺(すまでら) 神戸市須磨区須磨寺町4-6-8
真言宗 須磨寺派 大本山
奈良時代和田岬で見つかった観音像を会下山に安置す。
平安初期に聞鏡上人が勅命により、今の地に堂塔を営み、福祥寺と名付けた。
その後、兵火により荒廃し、源頼政が再興。慶長年間の大地震では豊臣秀頼が片桐且元に命して修復。


仁王門

金剛力士


唐門


本堂


護摩堂

大師堂

義経腰掛の松
一の谷合戦のあと、熊谷次郎直実が平敦盛の首を池で洗って、義経がそばの松に腰をかけて確かめたという。


神功皇后釣竿竹 
神功皇后が備前の小川で鮎を釣られ、戦の勝敗を占った釣竿をここにさしてゆかれ、根付いたのが釣竿の竹と伝えられる。


弁財天女


馬盥の額(ばだらい) 中門の額「上野山」


高麗笛(左)・青葉笛(右) 
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