重衡松(しげひらまつ)  薬師堂の西にあり。本三位中将重衡卿は、平相国五男にして、宗盛、知盛舎弟なり。生田の副将軍にておはしけるが、軍敗れて、この所まで逃げのぴたまひしが、つひにこの松の下にて虜れたまふ。諺に云ふ、その時里人、御余波ををしみ、須磨の名物濁り酒を捧げしかば、かくなん詠じたまふと云々、  
   ささほろや波ここもとを打ち過ぎてすまでのむこそにごり酒なれ  重 衡
『平家物語』云ふ、
本三位中将重衡卿は、生田森の副将軍に坐しけるが、その日の装束には、かちんに白う黄なる糸にて岩に村千鳥縫ふたる直垂に、紫下濃の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、金作りの太刀を帯き、二十四差いたる截生の矢負ひ、滋藤の弓持ちて、童子鹿毛と云ふ聞こゆる名馬に金覆輪の鞍置いて騎たまへり。乳母子の後藤兵衛盛長は、滋目結の直垂に緋縅の鎧着て、三位中将のさしも秘蔵せられたる夜目無月毛にぞ乗せられたる、主従二騎助船に乗らんとて、渚の方へ落ちたまふ所に、庄四郎高家・梶原源太泉季、好き敵と目を懸け、鎧を合はせて追つ懸け奉る。渚に助船ども多かれども、後より敵は追つ懸けたり。来るべき隙もなかりけれは、湊河・掻藻川を打ち渡り、蓮の池を馬手に見て、駒の林を弓手になし、板宿・須磨をも打ち過ぎて、西を指してぞ落ちたまふ。三位中将は童子鹿毛と云ふ聞こゆる名馬に乗りたまへり。もり伏せたる馬ども容易追つ附くべしとも見えざりければ、梶原もしやと遠矢に能引いて兵ど放つ。三位中将の馬の三頭を箆深に射させて、弱る処を、乳夫子の後藤兵衛盛長は、吾馬召されなんとや思ひけん、鞭を打ちてぞ逃げたりける。三位中将、如何に盛長われをば捨てていづくへ行くぞ、日来はさは契らざりしものと宜へども、空きかずして、鎧に付けたる赤効ども撥り捨て、ただ北げにこそ北げたりけれ。三位中将、馬弱るにより、海へ颯と打ち入れたまふ。身を投げんとしたまへども、そこしも遠浅にて、沈むべき様もなかりけれほ、膳を切らんとしたまふ所に、庄四郎高家、鞭鐙を合はせて馳せ来たり、急ぎ馬より飛んで下り、正なういづくまでとも御供仕り候はんずるものをとて、我が乗ったりける馬に掻き乗せ、つひに生け捕り奉り、鞍の前輪に締付け奉つて、我身は乗啓に乗つて味方の陣へぞ入りにける。乳夫子の盛長は、そこをはなんなく逃げ延びて、のもには熊野法師の尾中法橋を憑うで居たりけるが、法橋死して後、後家の尼公の訴詔の為に都へ上るに伴して上りたりければ、空憎や後藤兵衛盛長が三位中将さしも不便にしたまひつるに、一所に如何にもならずして、思ひ寄らぬ後家尼公の伴して上つたるよとて皆爪弾をぞしける。盛長も流石恥かしうや思はれけん、扇を顔にかざしけるとぞ聞こえし。されば監物太郎は、主君知盛を助け知章の先途を見て、命を忠に換へて美名を万代に揚ぐる。後藤盛長は、主君虜と成りたまふを見て逃げ延びて命を全うし、悪名を後 世に汚す。鄭の高渠彌、その君照公を槙しけるも盛長に比せんや。君子人の美を成して人の悪を成さず、小人これに反すとはこれらの誡なるべし。





山陽電気鉄道「須磨寺駅」(すまでらえき) 神戸市須磨区須磨寺町1
改札を出た北側、須磨寺参道脇に石碑があります。


平重衡とらわれの遺跡  
平重衡とらわれの松跡
寿永3年(1184)2月7日源平合戦の時、生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れて来たが、源氏の捕虜となり土地の人が哀れに思い、名物の濁酒をすすめたところ重衡はたいそう喜んで、「ささほや波ここもとを打ちすぎて 須磨でのむこそ濁酒なれ」の一首を詠んだ。 のち鎌倉に送られ処刑された。


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