経鳥山来迎寺(きょうとうざんらいごうじ) 当津島上町にあり。浄士宗、西山派。
本尊阿弥陀仏 恵心僧都の作。長四尺ばかり。島供養本尊釈迦仏 天竺橋曇弥夫人、頭の黒髪をもって縫の橡とLたまふ。長一尺ばかり。弁財天 弘法大師の作なり。
平清盛鏡影 年五十四歳の時、みづから画きたまふ影像なり。松王小児像 人柱と成りし時、十七歳の像なり。長一尺心平相国の作なり。梅実伽藍彫刻 梅仁一つに当寺古伽藍の図を刻めるなり。その外什宝多し。
観音堂 本堂の西にあり。鎮守 稲荷祠上に隣る。地蔵堂 鎮守に隣る。松王人柱印石 本堂の前にあり。
それ当寺は、応保年中、松応小児、この所にて人柱として海底に淪没し、つひに築島成れり。その時、島供養には叡山の観如上人を請じ、千僧を集め、妙典を誦しけるに、神撫山の嶺より、紫雲島のうへに靉靆して、聖衆音楽を奏す。その中に、松王は如意輪観音と現れ、光を放ちて、奇特の思ひ深かりしかば、平相国、詔を受けて、五条大納言国綱卿に命じ、伽藍建営の御教書を出だす。この書簡、今に什宝とす。それより常行念仏の道場となり、不断院と号し、世には築島寺とぞ呼びにける。


来迎寺(らいごうじ)  神戸市兵庫区島上町2-1-3
浄土宗西山派 経島山 通称築島寺
経が島築造の人柱となった松王丸の菩提を弔うため、一条天皇の勅命により念仏道場として建立。 


本堂


松王小児入海之碑 
二条天皇の御代、平清盛公はわが国の貿易の中心地はこの兵庫であると確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。しかし、潮流が早く非常な難工事で、完成目前に押し流されことが二度に及んだ。時の占い師は「これは竜神の怒りである。三十人の人柱と一切経を書写した石を沈めると成就するであろう」と言上した。  そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え通行の旅人を捕らえさせたが肉親の悲嘆は大きかった。このとき、清盛の侍童で香川の城主田井民部の嫡男松王十七歳が「人柱のことは罪が深い わたしひとりを身代りに沈めて下さい」と申し出、17歳の若者は従容として海中に消えた。  応保元年(1161年)7月13日 千僧読経のうちに松王は海底に沈み築島造営は完成した。現在の神戸港の生い立ちである。天皇は大いに感動されて 松王の菩提を永く弔うために当寺を建立し念仏の道場とされた。


妓王・妓女の塔
妓王・妓女の姉妹は京堀川の白拍子で、清盛の寵愛を得て優雅な日を送っていたが、清盛が仏前に傾くに及び、世の無常を嘆き、嵯峨野に庵(妓王寺)を結び仏門に入った。 その後、平家が壇之浦で敗れると平家ゆかりの兵庫の八棟寺に住持して一門の菩提を弔った。

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