丹生谷鷲尾旧屋(にふたにわしのをのきゆうおく) 同じ荘東下村にあり。
伝に日く、判官源義経、院宜をうけて平家一門追討のとき、都より三草山を歴て鵜越一谷の城郭を不定に落とさんとここに至りたまふに、山路嶮岨にて巡道しれざるゆゑ、案内者としてこの所の鷲尾熊王武久といふものを召されける。義経かれを見たまふに、勇猛人に超えこれただ者ならず、ことに駕は請鳥の剛勇なるものゆゑ、勝利利の前表なりとて山路魁将の案内者としたまふ。勝利の後、義の一字を賜はり義久と号し、太刀一挺鎧一両馬一疋拝領す。そのうへ、日の丸の陣扇をたまふ。これより今に至るまで家紋とす。 この武具等は、義久生涯随身して奥州へ落ち行きけるにや、今なし。もちろん旧記等も紛失して証とすべき物見えず。家に伝来す弁慶の太刀、亀井六郎が太刀あり。この二振の太刀は義経公に随従の一時、かれらより躍らるるならんか。
 弁慶太刀 無名。長四尺三寸。目釘穴一つ。棒鞘。文亀年中火に入りて当時錆あり。
 亀井六郎太刀 無名。長三尺六寸。目釘穴三つ。棒鞘。
 義経公腰懸石 高さ一尺一寸。巾三尺六寸五分。初めは門前の山際にあり。後世鷲尾庭前に移す。
駕尾義久より当代まで、すべて二十九代、家名相続し、丹生谷郷中の村甲にして鷲尾源吾と称す。
 『平家物語』云ふ、
頃は二月初の事なれば峯の雪村消えて花かと見ゆる所も有り。谷の鶯音信れて霞に迷ふ所もあり。登れば白雪皓々として聳え下れば青山峨々として岸高し。松の雪だに消えやらで苔の細道幽なり。嵐にたぐう折々は梅花ともまた疑はれ、東西に鞭を掲げ駒を早めて行く程に、山路に日暮れぬれば、皆下居て陣を取る。ここに武蔵坊弁慶、ある老翁一人具して参りたり。御曹子、あれはいかにと宜へは、これはこの山の猟師で候と申しければ、さては案内よく知りたるらん、いかでか存じ仕らでは候べき。御曹子、さぞ有るらん、これより平家の城郭一容へ落ときうと思ふはいかに。ゆめゆめ叶ひ侠まじ、およそ三十丈の谷、十五丈の岩崎などをほたやすく人の通ふべきやうも候はず。その上、城の内には落穴あり。堀に菱をも値ゑて待ち進らせ候らん、まして御馬などは思ひも寄り候はず、と申しければ、御曹子、さてさやうの所は鹿は通ふか。鹿は通ひ候、世間だに暖かに成り候へは草の深きに臥さんとて播磨の鹿は丹波へ越え、世間だに寒うなり候へは、雪求食に食まんとて丹波の鹿は播磨の印南野へ越え候とぞ申しける。御曹子、馬場ごさんなれ鹿の通はんずる所を馬の通はざるべきやうや有る。さらはやがて案内者せよと宜へば、この身は年老いていかにも叶ひ候まじと申す。さて汝に子は無きかと尋ねたまへば、さん候、熊王とて生年十八歳に成りける小冠者を奉る。御曹子、やがて髻取り上げさせたまひて、父をば鷲尾庄司武久と云ふ間、これをば鷲壁二郎義久と名乗らせて、一谷の先打せさせ案内者にこそ見せられけれ。平家亡び、源氏の代に成りて後鎌倉殿と中違ふて奥州へ下り討たれたまひし時、鷲尾三郎義久と名乗って一所に死にける兵なり。 ヽ

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