明泉寺(みょうせんじ)長田村の奥にあり。天照山と号す。
いにしへは伽藍醜々たり。寿永の兵乱に荒廃す 本尊大日如来(行基の作。長五尺ばかり、祈るに霊応あり。つねに詣人絶えず。







明泉寺(みょうせんじ) 神戸市長田区明泉寺町2
天照山 大日寺 臨済宗
天平年間、行基菩薩(668〜749)が西代の蓮池を拓かれた際の創建と伝え、元は長田村から白川村を経て太山寺へ通じる長坂越東山の古明泉寺大日丘の地にあったが寿永3年(1184)2月7日の明泉寺合戦に平盛俊が陣を布き、義経の来襲に備えたため戦災で焼け、観応2年(1351)赤松判官光範公によりこの地に復興された。 また平知章が討死したのは北方の谷モンナ池の辺りで、藪の中にあった塚を境内に移し、五輪塔として祀っている。


本堂 本尊:大日如来


平知章の墓


『源平盛衰記』 平知章 孝死之図  奥 文鳴 筆

平家物語 巻第九 『知章最期』
 新中納言知盛の郷は、生田の森の大将軍にておはしけるが、その勢、 皆落ち失せ、討たれしかば、御子武蔵の守知章、侍に監物太郎頼方、主従三騎、汀の方へ落ち給ふ處に、ここに児玉党と覚しくて團扇の旗さしたる者どもが、十騎ばかり、鞭鐙を合せて、おしかけ奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手なりければ、取って返し、真先に進んだる旗差が首の骨を、ひやうっぱと射て、馬より倒(さかさま)に射落す。  その中の大将と覚しき者、新中納言に組み奉らんとて、馳せ並ぶる所に、御子武蔵の守知章、父を討たせじと、中に隔たりおし並べ、むずと組んで、どうと落ち、取って押えて首をかき、立ち上らんとし給う所に、敵の童、落ち合せて、武蔵の守の首を取る。監物太郎、落ち重なり、武蔵の守討ち奉ったりける敵が童をも、討ちてけり。その後矢種のあるほど射盡し、打物抜いて戦ひけるが、弓手の膝口をしたたかに射させ、立ちも上らで、居ながら討死してけり。  
            寿永三年(1184)二月七日  
 その後新中納言知盛の郷、大臣殿の御前におはして、涙を流いて申されけるは、「武蔵の守にも後れ候ひぬ。監物太郎をも討たせ候ひぬ。今は心細うこそまかりなって候へ。されば、子はあって、親を討たせじと敵に組む見ながらいかなる親なれば、子の討たるるを助けずしてこれまで逃れ参って候ふやらん。あはれ、人の上ならば、いかばかり、もどかしう候ふべきに、わが身の上になり候へば、よう命は惜しいものにて候ひけりに、今こそ思ひ知られて候へ。人々の思し召さん御心の中どもこそ、恥しう候へ」とて、鐙の袖を顔に押し當てて、さめざめと泣かれければ、大臣殿、「まことに、武蔵の守の、父の命に代られるこそありがたけれ。手もきき、心も剛にして、よき大将軍にておはしつる人を、あの清宗と同年にて、今年は十六な」とて、御子右衛門の督のおはしける方を見給ひて、涙ぐみ給へば、その座にいくらも並み居給へる人々、心あるも心なきも、皆鐙の袖をぞ濡されける。



牛の寺として知られ、以前は、農家の人々が牛の息災を祈って、この寺に連れて参る風習があった。
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