新中納言知盛の郷は、生田の森の大将軍にておはしけるが、その勢、 皆落ち失せ、討たれしかば、御子武蔵の守知章、侍に監物太郎頼方、主従三騎、汀の方へ落ち給ふ處に、ここに児玉党と覚しくて團扇の旗さしたる者どもが、十騎ばかり、鞭鐙を合せて、おしかけ奉る。監物太郎は、究竟の弓の上手なりければ、取って返し、真先に進んだる旗差が首の骨を、ひやうっぱと射て、馬より倒(さかさま)に射落す。
その中の大将と覚しき者、新中納言に組み奉らんとて、馳せ並ぶる所に、御子武蔵の守知章、父を討たせじと、中に隔たりおし並べ、むずと組んで、どうと落ち、取って押えて首をかき、立ち上らんとし給う所に、敵の童、落ち合せて、武蔵の守の首を取る。監物太郎、落ち重なり、武蔵の守討ち奉ったりける敵が童をも、討ちてけり。その後矢種のあるほど射盡し、打物抜いて戦ひけるが、弓手の膝口をしたたかに射させ、立ちも上らで、居ながら討死してけり。
寿永三年(1184)二月七日 その後新中納言知盛の郷、大臣殿の御前におはして、涙を流いて申されけるは、「武蔵の守にも後れ候ひぬ。監物太郎をも討たせ候ひぬ。今は心細うこそまかりなって候へ。されば、子はあって、親を討たせじと敵に組む見ながらいかなる親なれば、子の討たるるを助けずしてこれまで逃れ参って候ふやらん。あはれ、人の上ならば、いかばかり、もどかしう候ふべきに、わが身の上になり候へば、よう命は惜しいものにて候ひけりに、今こそ思ひ知られて候へ。人々の思し召さん御心の中どもこそ、恥しう候へ」とて、鐙の袖を顔に押し當てて、さめざめと泣かれければ、大臣殿、「まことに、武蔵の守の、父の命に代られるこそありがたけれ。手もきき、心も剛にして、よき大将軍にておはしつる人を、あの清宗と同年にて、今年は十六な」とて、御子右衛門の督のおはしける方を見給ひて、涙ぐみ給へば、その座にいくらも並み居給へる人々、心あるも心なきも、皆鐙の袖をぞ濡されける。 |
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