楠正成墓(くすのきまさしげのはか) 湊川二町ばかり北、坂本村田圃の中にあり。
初めは一堆の塚のみにして、塚上に松梅の二本の印あり。元禄4年、水戸黄門光圀卿、石碑を建てさせたまふ。従士佐々木助三郎奉行す。村老云ふ、この時不意に多くの武士来たりて、碑をここに運送し、一夜の中に建てられけるとなり。領主・荘官などもしらずして、何事にやと不審しけるなり。やうやう蹤にてこの事しれけるとかや。黄門卿の深き思慮ありける事にやと、その頃評じけるとなり。碑石の外に瓦葺方三間の雨露覆あり。その頃の領主青山播磨侯の造立なり。またカイドウの傍に標石あり。楠公墓と鐫す。



楠公石碑の図
碑石、堅三尺九寸、横一尺六寸、厚さ一尺、青石なり。中壇、竪二尺元寸、横五尺。下壇、竪五尺、横一丈。共に白石なり。亀[足夬](きけつ)前に向かへり。碑面は、鳴呼忠臣楠子之墓(巳上八字)。水戸黄門光圀卿の親筆八分字なり。碑陰は明の遺臣朱舜水碑文を撰ず。塔中の石棺に円鏡一面を蔵む。文に日く、楠正成霊、源光圀造立。
 碑文に日く、
 忠孝は天下に著はる。日月は天に麗かなり。天地日月無ければ、すなはち晦蒙否の信を考ふる所無くして、その盛美の大徳を発揚すること能はざるのみ。
右、故の河摂泉三州の守、贈正三位近衛の中将楠公の賛。明の徽士、舜水朱之瑜、
字は魯[王與]が撰する所なり、勒して碑文に代へて、もって不朽に垂る。
  碑文十行、跋文二行、都合字数三百三十字なり。
『太平記』日く、
 楠判官正成、舎弟帯刀正季(『三梢実録』に云ふ「初め正氏、後、正季と改名す」)に向つて申しけるは、敵前後を遮つて、御方は陣を隔てたり。今は遁れぬ処と覚ゆるぞ。
いざや先づ、前なる敵を一散し追ひ捲って、後口なる敵に戦はんと申しければ、正季、しかるべく覚え候と同じて、七百余騎を前後に立てて、大勢の中へ懸け入りける。左馬頭直義(さまのかみただよし)の兵ども、菊水の旗を見て、よき敵なりと思ひければ、取り籠めてこれを討たんとしけれども、正成・正季、東より西へ破りて通り、北より南へ追ひ靡け、よき敵と見るをぱ馳せ双べて、組んで落ちては首を取り、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打って懸けちらす。正成と正季と七度合ふて七度分かる。その心、ひとへに左馬頭に近付き、組んで討たんと思ふにあり。つひに左馬頭の五十万鏑、楠が七百余騎に懸け靡けられて、また須磨の上野の方へぞ引き返しける。直義朝臣(ただよしあそん)の乗られたりける馬、矢尻を蹄に踏み立て右の足を引きける間、楠が勢に追ひ攻られてすでに討たれたまひぬと見えける処に、薬師寺十郎次郎ただ一騎、蓮池の堤にて返し合ふて、馬より飛んで下り、二尺五寸の小長刀の石づきを取り延べて、懸かる敵の馬の平頸、胸がひの引き廻し、切っては刎ね倒し、七、八騎が程切つて落としける。その間に、直義は馬を乗り替へて、はるばる落ち延びたまひけり。左馬頭、楠に追つ立てられて引き退くを、将軍尊氏見たまひて、悪手を入れ替へて、直義討たすなと下知せられければ、吉良・石堂・高・上杉の人々、六千余騎にて、湊川の東へ懸け出でて跡を切らんとす。取り巻きける正成・正季また取って返して、この勢にかかり、懸けては打ち達へて殺し、駈け入っては組んで落ち、三時が間に十六度まで闘ひけるに、その勢次第次第に滅びて、後はわづかに七十三騎にぞ成りにける。この勢にても打ち破って落ちは落つペかりけるを、楠、京を出でしより、世の中の事今はこれまでと思ふ所存有りけれは、一足も引かず戦ふて、機すでに疲 れけ九は、蕗河の北に当たって、在家の一村有りける中へ走り入つて、腹を切らん為に鎧を脱いで我が身を見るに、斬庇十一箇所までぞ負ふたりける。この外、七十二人の者どもも、皆五箇所三箇所の庇を被らぬ者は無かりけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双び居て、念仏十返はかり同音に唱へて、一度に腹をぞ切ったりけるむ(中略)そもそも元弘より巳来、悉くもこの君に憑まれ奉って、忠を致し功にはこる着幾千万ぞや。しかれどもこの乱また出で来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨てて敵に属し、勇なき者はいやしくも死を免れんとて刑戮に遇ひ、智なき者は時の変を弁せずして道に違ふ事のみありしに、智仁勇の三徳を兼ねて死を善道に守るは、古より今に至るまで、正成ほどの者はいまだ無かりつるに、兄弟ともに自害しけるこそ、聖主再び国を失ひて、逆臣横に威を振るふべきその前表のしるしなれ云々。
    楠延尉の某に題す   杉美仲
偏勤王事逐無達
致命弟兄心相依
今看田間余墓石
離々禾黍涙霑衣
偏へに王事を勤めて遂に遼ふこと無し
命を致す弟兄の心相ひ依る
今看る田間墓石を余し
離々たる禾黍涙衣を霑す
春日湊川を径て楠公の益に題す  箕山 熊尚之
 遠説臥竜絶古今  遠く説く臥竜古今に絶すと
 元弘危急存亡任  元弘の危急存亡の任
 暗振奇策倚金嶺  暗に奇策を振って金嶺に倚り
 巧用英謀屯笠岑  巧みに英謀を用ひて笠岑に屯す
 諸葛一身彊武節  諸意一身の武節を彊り
 連楠三葉富忠心  連楠三葉忠心に富みしなり
 堪燐古墳松間下  僻みに堪へたり古墳松間の下
 百囀鴬敬自好音  百囀の鴬歌も自ら好音なり


大楠公御墓所  神戸市中央区多聞通3-1-1





元禄5年(1692)12月21日徳川光圀公建立。


碑面8文「嗚呼忠臣楠子之墓」は光圀公筆 碑陰 朱舜水撰 岡村元春書


御像並頌徳碑  銅像原型制作:平櫛田中 鋳造:伊藤忠雄 頌徳文起稿:徳富蘆峰
昭和30年(1955年)7月建立。


楠木正成戦没地  境内北西隅 楠木正成公が一族16騎、郎党60余人と共に自刃した所。


湊川神社(みなとがわ) 神戸市中央区多聞通3-1-1
明治元年(1898)明治天皇は大楠公は千載の1人、臣下の亀鑑として鎮祭すべき旨仰せ出されこの地に湊川神社が創建された。
明治5年(1872)5月24日、別格官幣社に列せられる。 建武中興15社の1社


拝殿
主神:楠木正成公(くすのきまさしげ・大楠公)
配祀:楠木正行郷(まさつら)及び湊川の戦で殉節された楠木正季郷(まさすえ)以下御一族16柱並びに菊地武吉郷(きくちたけよし)。
甘南備神社(本殿に合祀) 祭神:楠木正成夫人滋子

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