喜多風家(きたかぜのいへ)当津に同姓の支族八家あり。今、北風戸書す。この家名一千五百余年も相続くといふ。
『家譜』に云ふ、 むかし神功皇后、三韓退治の御時、この浦に御船泊まりまします。ここに孝元天皇の裔孫彦麿といふ者、累世この浦に住し、漁者にてやありけん、海老と蟹を貢る。
皇后、彦麿を叡覧ましまし、子孫栄久の相あり、後世この浦の長たるべしとて、皇后の御手形を璽とし賜りける。
当津佐比江に鎮守を営み、これを社檀に蔵め、相殿に春日明神を祭る。ゆゑに今、春日杜とも称す。
杜僧を西光院と号し、真言僧これを守りありしが、後世浄土宗と改め、西光寺と号す。
彦麿苗孫の姓を白藤といふにより、この寺を世に藤の寺と呼ぶ。今に至って、北風支族の宿坊なり。
彦麿より三十八代の後、白藤彦七郎惟村といふ者あり。
建武二年二月、奥州の国主北畠中納言顕家卿・新田左中将義貞朝臣等、足利尊氏を追討の為、兵庫津まで下着の時、白藤惟村、官軍に属し、訪軍とともに先陣に進ふ、軍忠多し。
足利直義、この軍に討ち負け、兄尊氏と一手に成り、兵庫の沖に船がかりありける折節、北風烈しく吹いて、纜を解くべきやうもなく、官軍も攻めかかるべき術もなく、その夜は両陣ただいたづらに磯うつ浪を枕とす。
白藤惟村の一族二十一騎、家子八十七人、陣屋に聚めて日く、我が勢極めて無勢なれば、蒐合の勝負は墓々敷事あるべからず。
今宵北風の烈しきに乗じ、おのおの小船に乗りて敵船に忍び寄り、その纜をもやひ繋ぎて、一同に火を放ち、尊氏兄弟を討ち亡ぽさばやと思ふはいかにといへば、一族みな同意し、これ究竟の奇計なりとて、闇夜なれば白藤といふ相詞を定め、敏馬浦よりひそかに乗り出だし、難なく忍び入つて、一同に火をかけ、すでに尊氏公も危ふく見えさせたまひけれ。
その時、諸将命を軽んじて防ぎ戦ひ、武運や強かりけん、つひに筑紫の方へ逃げ通れたまふ。新田義貞朝臣、惟村が勇威を感ぜら九、貞の字をたまはり、これより貞村と改名し、感状をぞたまはりける。その文に日く、 白藤左街門佐貞村、軍忠の事  朝緻尊氏の一難、再び螂斧を擡げ、ますます朝憲を蔑にし、たちまち天誅を蒙り、摂州兵庫に至つて逃げ降るの日、貞村、北風の虚に乗じ敵船を焼く。僅か十八駒をもつて逆徒二十万騎を脅し、一時に勝つこと得たり。兵の器なり。賞すべきなり。
最も天聴に達せん者か。汝が軍立、北風の烈々たるに似たり。今より以後、白藤を改め、喜多風と為すべきなり。よつて件のごとし。    建武二年二月八日  義貞判
この感状およびその時賜はりたる太刀一振、今に本家喜多風が許にあり。
旧記には見えざれども、兵庫にてはその名高ければ、家譜を見てここにその大意を記すのみ。
『摂津志』には「兵庫津の名産酢、俗に北風と呼ぶ」と書きしは、本家に酢を造る事を業とすれば、かくは書きしならんや。






北風正造君顕彰碑 (能福寺境内)   兵庫廻船問屋 兵庫新川開発の発起人 
北風家は代々、荘右衛門を名乗り、諸荷物問屋として西国・山陰・北海道に物資を集散し、兵庫津に北風ありの名を高めた。とくに荘右衛門貞幹 (1736~1802)は蝦夷地交易の利に着眼し、淡路出身の高田屋嘉兵衛を後援し、ニシンしめかす(干鰯)の大量移入をはかり、この肥料によって西日本の農業生産は急速に増大したといわれる。貞幹のあと三代にわたって北風家は兵庫津十二浜の問屋、倉庫街を支配し、豪富をうたわれた。幕末、維新期に家を継いだ正造貞忠は尊王の志が厚く、兵庫津の発展に貢献した。
しかしこの家は明治20年代に没落し、その跡は失われた。



藤之寺(ふじのてら) 神戸市兵庫区兵庫町1-3-6
浄土宗 紫雲山 文安4年増上寺第3世聖観を開山に、白藤氏を施主として創建し、西光寺と称した。
明治元年廃寺、翌年望月有成が復興し、藤之寺と改める。
昭和19年、戦災を被り、昭和30年再建す。


本堂 本尊:阿弥陀如来
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