医王山広厳宝勝禅寺(いおうざんこうごんほうしょうぜんじ)楠公の碑の上方、三町ばかりにあり。坂本村といふ。
禅宗。正成の菩提所なり。
本尊薬師仏 僧正行基の作。長二尺玉寸。後醍醐天皇の御寄附なり。
毘沙門天 弘法大師の作。長一尺二寸。正成の守り本尊なり。
当寺開基は、元亨元年の春大元国より来朝せし俊明極(しゅんみんき)といふ智徳兼備の禅師なり。
その頃都に在って参内せし時、主上(後醍醐帝)紫宸殿において御相看(ごしょうかん)あって、勅問(ちょくもん)に日く、山に桟(かけはし)し海に航(ふなばし)して得々して釆たる。和尚何をもってか度生(どしょう)せん。禅師答へて日く、仏法緊要の処をもって度生せん。重ねて日く、正当恁麼(しょうとういんも)の時如何。答へて日く、天上に星有り皆北に拱(たんだ)くす。人間水として東に朝せずといふこと無し。御法莛畢って、禅師拝揖(はいいつ)して退出せらる。翌日、別当実世(べっとうさねよ)卿を勅使にて、禅師号を賜りける。時に、禅師、勅使に向かひて、この君亢竜(きみこうりょう)の悔ありといへども、二度帝位を践(ふ)ませたまふべき御相ありとぞ申されける事、『太平記』に見えたり。また寺説に日く、楠公の一族十三人、士卒六十余人、この寺に入りて、建武三年五月二十五日戦死す。
禅師すなはち遺骸を路傍に葬むる。今の慕碑の地なり。本堂を瑠璃殿と称す。楠公引導の師たるによって、甲冑の像・衣冠の影、相ともに仏殿に安ず。露柱左右の聯板(れんばん)に書して日く「関山仏日焰恵禅師明極(みんき)和尚示寂、建武三年九月二十七日。楠正成戦死、建武三年五月二十五日、四十三歳」。
 当寺什宝に、楠公碑表造立の時、当山和尚に腸ふ黄門光圀卿の御筆あり。正成所持の軍配団扇・采(さい)・幣串(へいくし)ならびに楠公真筆の書翰あり。
その文に日く、
外にこの巻絹一疋、
この度隼人差し下し候事、別事に非ず、我等の最後近く候。
公より、拝受ぐそくは
とく覚え与り候、願光殿成長の器量、見届け度く候得共、
祖より我等まで着古し侯。
義重き所、更に遁れ難く候。学を勒(をさ)め、怠ること無く成長の後
長かたみと送り候。以上
我等の心中を察せらるべく候。謹言。
  建武三          同兵衛
      正月二十日      正成
     楠庄五郎どのへ



広厳寺(こうごんじ) 神戸市中央区楠町7-3-2
臨済宗南禅寺派 醫王山 本尊:薬師如来
建武3年5月、湊川の合戦に敗れた正成と16人の武者は、支坊の無為庵で自害したことから、楠寺(くすのきてら)と呼ばれている。
明極禅師の開山。七堂伽藍、支坊63の大寺であったが、元禄年間に千巌和尚が再興。戦災と震災で大きな被害を受ける。


梵鐘 鉄骨にサッシ屋根で組まれた仮の鐘楼 





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