池田城跡(いけだのしろあと)当津管内にあり。兵庫城ともいふ。
池田信輝、天正年中この津守領の時、花隈城を毀り、その材石を移してここに築く。  













兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 神戸市兵庫区切戸町5-26
天正9年(1581)池田信輝が、この辺から切戸町へかけて、兵庫城を築いた。
明治元年、城の一部に、最初の兵庫県庁がおかれた。
昭和58年3月 神戸市



天正8年(1580)池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから、兵庫は、それまでの室町幕府の権力を離れ、東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の手に入り、これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
その地点は現在の切戸町、中之島中央市場にかけて東西、南北ともだいたい140mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。
古来兵庫は、源平の合戦、湊川合戦以来たびたび大きな合戦があって、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。
しかし信長・秀吉による全国統一がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入って元和3年(1617)尼崎藩領となって、藩の陣屋となってからは大坂町奉行所に所属して、与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。
新政府は慶応4年(1868年9月8日明治改元)1月22日にこの城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが、2月2日に兵庫裁判所と名が変わり、5月23日にまた「兵庫県」と改められた。
つまりここが最初の兵庫県庁である。
その後県庁は同年9月18日、今の神戸地方裁判所の場所に新築移転、さらに明治6年5月現在地に移転した。
明治7年(1874)新川運河の開削が行われ、城跡の中心地はほとんど川敷になってしまった。
兵庫県・神戸市・岡方協議会

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