一谷(いちのたに) 西須磨の村はづれより一町余り西にあり。谷の広さ二十間ばかり、高さ十二間、谷口より波打際まで一町余あり。
この谷の奥深くして霖雨には流水あり。夏月夕立の跡には流の中に鮎多く落ち来たつて里の童みなこれを拾ふ。この渓川の真砂の色、西の方は赤く東の方は白し。諺に云ふ、源平の旗の色今に顕れしとぞ。これ地理の奇なるものか。
それ、この一谷は古戦場にして世に名高く、平家二十余年の栄花も一瞬息の間にして寿永の暴き風に驚かされ、今は名のみ残りて、春は源平躑躅とて赤く白く花咲きみだれて軍馬の旗を靡すかと疑ふ。夏は磯辺に飛びかふ螢、さながら鉄騎火花をちらして攻め戦ふ分野。秋来由れば柳散りかかりて波間にゆられ漂ふけしき、平氏八島の浦へ落足して船はしる俤。冬は霜の剣するどくこがらしに吹きまじる玉あられ、逃ぐるあり追ふあり、岩の肩に隙もなし。されば趙の井陘、魏の赤壁に比して、さしも険要の地といヘども帷幕の籌策に罹つて、義臣もここに喪び、功名も一時の叢となり、ここを過ぎ行く人はしばしは憩ひて懐旧を述べ、古戦場をとむらふもあらんかし。
                                                                          邦 美
祲気一抹紫徴星 祲気一抹す紫徴の星
海岸忍留舟翰声 海岸留に忍ぶ舟翰の声
冠義春寒風度谷 冠蓋春寒くして風、谷を度り
剣瓊雪暗夜過庭 剣瓊雪暗くして夜庭を過ぐ
鄧軍蜀嶺九天下 鄧軍蜀嶺九天下より下り
宋主崖山幾月経 宋主の崖山幾月をか経たる
赤轍光消空返炤 赤轍光消して空しく返炤のとき
無人対酒粒新亭 人の酒に対して新亭に泣くこと無からんや

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