兵庫津(ひようごのつ) 福原荘、海陸都会の地なり。町数四十四名。西海道の駅にして、大坂入船の要津なり。官通に岡方・北浜・南前等の名あり。一名、武庫水門、武庫の泊、あるいは輸田泊ともいふ。
諸国の商船ここに泊まりて、風波の平難を窺ひ、諸品を交易す。町小路の賑ひ、昼夜のわいためなく、繁花の地なり。出帆の時は東南の風宜しからず。涯南百歩ばかりにて、海底に洲あり。長き事、菟原郡深江浦に連なる。毎年三月汐干の時は必ず見ゆるなり。
天長八年三月、大輪田泊を造って、使の遷替を定むとはすなはちここなり。また承和三年入唐使の船をこの澳に泊むるなど、古記に見えたり。
平相国の時より築島成就して、今のごとく水門となれり。 むかしの兵庫津はこれより西北の山手にして、すべてその地までも海浜なり。町小路もなくして、多くは漁村楫取の家のみなり。諸船入津の売買は、天正以後の事なり。
『日本紀』日く、
孝徳天皇大化元年、閑曠なるの所において兵庫を起造りて、国都の刀・甲・弓矢を収め聚む云々。

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