再度山大竜寺(ふたたびさんだいりゆうじ) 宇治野村上方、十八町にあり。坂路一町毎に標石を建つる。古義塾言宗。  
本尊如意輪観世音 行基菩薩作。長二寸八分。中前立同尊 弘法大師作。長二寸五分。
前立同尊 小野篁作。長八寸。 脇士 不動尊・毘沙門天。 
不動堂 石像不動尊を安ず。弘法大師作。 行者堂 役行者ならびに弁財天を安ず。 稲荷祠 当山鋲守とす。本堂の側、岩窟の中にあり。
奥院大師堂 弘法大師を安ず。閼伽井 奥院にあり。大師加持水なり。  
梵字石 同所にあり。大師の所作。 
蛇谷 当山にあり。弘法大師入唐の時、降魔、悪風を興して船を覆さんとす。竜神、大蛇と現じ、渡海の船を守護す。大師求法成就して、帰帆の時もまたしかなり。これすなはち、観音の冥助なりとて、ここに立山し、法楽を捧げたまふに、竜神、大蛇と現れ、この谷に米たる。かるがゆゑに名とす。
弘法滝 麓の標石より三町ばかり上にあり。これに浴する時は諸病を治すと云ふ。 
糸桜滝 弘法滝より一町ばかり上方にあり。滝の水、千筋に流れ放りて、糸桜のごとし。 
小屋場 麓より五町目の上にあり。赤松氏籠城の時、ここに陣営ありしとぞ。 
中地蔵 麓より九町目に石像地蔵尊を安ず。 
それ当山は、はじめ摩尼山と号す。また多々部山ともいふ。北は群山層々として、鳥道危険に梯し、滝の音淅瀝として、笙簧の声あり。南は海水渺々として、漁舟波上に浮かみ、兵庫津の泊船、駅路の行人、その風光絶妙にして、足らずといふ事なし。
そもそもこの寺の由致を聞き伝ふるに、神護景雲二年、亜相和気清麿、老僧を夢見て、宝珠懐に入ると思ふて、如意輪観音の霊像を得たり。その像はすなはち、僧正行基、一鐫三礼にして作る所なり。精舎をここに建てて、尊容を安じ、摩尼山と呼ぶ。これより霊応日々に彰る。
延暦甲申の年、弘法大師、入唐の時、初めて登山し、本尊に求法を願ひ、その後大同年中、意願満足して帰朝ありて、ふたたび登山ありしゆゑに、再度山の号あり。大師、錫をここに駐めて密法を修し、浄水を求めんと欲するに、甘泉忽然として涌出す。今の加持水これなり。また窟中に弥陀・弥勒・文殊・普賢・不動等の梵字を刻す。
星霜累りて後、寇火に遇ふて、講堂灰燼と成り、観応二年、赤松範公、薩堹の勝迹を思ふて梵字を新たに締構す。また田園を数十頃投じて寺産とす。本州名族の裔、比丘善妙を延いて中祖とす。
永和乙卯の春、後園融帝御不例あり。諸僧に勅して、これを禳ふに効なし。善妙に詔命ありて、その法を試むるに、七日にして平愈したまふ。皇、大いに欣悦ありて、宸翰および宝器数種を賜ふ。
善妙逝後に迨んで、戦国と成り、浄殺荒穢す。寛文年中、商都招提寺沙門実祐来居して、興複の志願あり。不幸にして化す。その徒賢正上人、先志を忘れず、今のごとく堂合を創す。毎年三月十八日、観音会を設く。 四方の道俗随喜瞻礼して、群参する事幢々として、あたかも稲麻のごとし。  






大龍寺(たいりゅうじ)神戸市中央区神戸港地方再度山1

仁王門

鐘楼堂
岩窟に鎮座する鎮守・権倉稲荷大明神

 毘沙門堂
 大師堂(本堂)
木造菩薩立像 一体 (国指定重要文化財) 指定年月日 昭和4年4月6日 
再度山の中腹にある本寺は、山号を再度山といい真言宗の寺です。寺伝によると、神護景雲2年(768)に称徳天皇の勅をうけ寺塔建立の霊地を求めて当地の山中まで来られた和気清麻呂公が、この地に伽藍を建立し寺名を「大竜寺」と名付けたと言われています。
また、弘法大師が入唐のとき、登山して求法を祈り、帰朝ののち再び登山したので、「再度山」の名が起こったといわれています。
本堂の中には、本寺の御本尊である菩薩が祀られています。この仏像は奈良朝の造像と考えられる神戸市内最古の仏像です。像高180.4cmの本像は徹底した一木造で、頭頂から台座の蓮華座までを一木から彫り出しています。頭髪・顔面・上半身の皮膚部分等には漆が盛り上げられ、表現を和らげています。一方、像の奥行きは比較的薄く、古い感覚を伝えています。部分的に地塗りの白土を、背面と脇下にはわずかに朱の色彩を残しています。
平成5年3月 神戸市教育委員会

不動堂

奥の院大師堂
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