巨鼇山福巌禅寺(こごうさんふくごんぜんじ) 当津、門口町にあり。禅宗済家。 
本尊釈迦仏 仏殿に安ず。座像。長二尺ばかり。十一面観世音 方丈に安置す。
むかし兵庫の西に柳の大樹あり。その地を号けて柳原といふ。樹下に木下源太といふ夫婦の者あり。 
つねに普門品を誦して大悲を信ず。家窮めて貧しく草鞋を作りて業とす。ある時異僧忽然として来たり、一夜を乞ふ。夫婦辞して日く、貧困にして供する食なし。ことに今宵歳尾にして、新玉の年を迎ふなれば、日出度宿を求めたまへといふ。異僧これを聞かずして、ただ主人と寝食をともにせんと、つひにここに宿る。明旦、破れ椀に薺の糝を盛り供ずるに、僧これを賞味し、夫に草鞋を乞ひ、これを著き、竃の後なる湛太瓶をめぐりて、慈眼視衆生福聚海無量と唱へて、夫婦に謝し宿を出でらるるに行方なし。そのかの桶を開くに、変じて麹醤となる。近隣の者これを聞き伝えて乞ふに、尽くる期なし。かくのごとく数日にして止まず。それより家の軒にその印をかけて、商ふ事夥し。今世にある匙箸看板の始めなり。
すでにして年月を累ねぬれば、家富み繁来す。人呼んで木下長者といふ。またある夜の夢に、われはこれ往昔除夜に宿を求めし僧なりとて夢覚めぬ。枕上をみれば、大悲の尊容赫然として現じたまふ。
夫婦の者恭敬仰礼して、伽藍を建立せんとて九国の方へ船を下し、良材を求め、この和田の御崎を登るに、悪風俄に吹き来たつて、材船ことごとく漂覆して海底に沈む。長者茫然として何ともする事なし。ただ大悲を信ずるに、可禅といふ僧来たりて竜神を祈るに、たちまち巨鼇浮かみ出でて、その船を負ひ上げたり。これによつて殿塔を建営し、かの尊像を安置す。これを栴檀林と号し、可禅もここに止住し、仏燈国師を開祖とす。
大悲の応験・巨鼇の査特をもって、巨鼇山福厳寺と号す。
元弘三年五月晦日、後醍醐帝、隠岐国より還幸あるとき、竜駕を当寺にめぐらされ、毘耶室に渡御したまふ。六月朔日、四海一統万民豊楽の御祷り、勅して大般若経を転読せらる。 また栴檀林に揺輿ありて、この尊容を礼し、木下が来由を叡感したまふ。
中頃、兵焚のために堂閣一時に焦土となりぬ。しかはあれども、大悲の応鹸かがやきて古今なし。四方の民俗渇仰する事むかしにかはらす。  




福厳寺(ふくごんじ) 神戸市兵庫区門口町3-4
南禅寺派 開山は仏僧国師約翁徳倹。開基は木下源太と伝えられる。
元弘3(1333)年、後醍醐天皇が隠岐から京へ戻る途中、楠木正成、赤松円心の出迎えを受けた寺です。


本尊:釈迦如来。
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