光源氏旧蹟(ひかるげんじのきゅうせき) 須磨寺の西南に源光寺といふ本願寺御門跡末の道場あり、この地をいふ。
『源氏物語』は作り双紙なれば古跡のあるべくとも思はれず。按ずるに、西宮左大臣の謫居宅の地か、実は現光寺なり。
永正年中の建立の道場とぞ。什物に陣太鼓あり。
 芭蕉翁句碑 源光寺門前にあり。近年豊後俳士芳蘿坊これを建てる
 見わたせばながむれは見れば須磨の秋             はせを
 風月庵似雲跡 (じうんのあと) 源光寺境内に旧庵遺れり。この人この浦に塩竈の絶えにしを歎きて再び興さんとはかりけるとなり。
 月にふけ須磨の上野の秋の風尾花の波につづく浦浪       似 雲
『近世崎人伝』云ふ、
 僧似震、始めの名は如雲、安芸国広島の人なり。歌を好み、都にのぼりて、儀同三司実陰公に学ぶ(後、ゆゑありて参らずなりぬるとぞ)。名山霊地ここかしこに游び住所を定めざれは、世に今西行といへるを聞きて自らも、
  西行に姿ばかりは似たれども心は雪と墨染の袖
 と戯れける。さればこの上人の墓所さだかならぬを歎きて、石山の救世菩薩に祈りその霊告によりて、河内国弘川寺をもとめ得たり。そこにてただ行塚といひならはして、そのよしもさだかならざりしを、石のしるしを建て、はたその寺に有りける肖像をも捜し出だして党を造立し、自らも山中に庵を結びて住めり。春雨亭といふ。
 その時の歌に、
  並ならぬむかしの人の跡とめて弘川寺にすみぞめの袖
 その庵のひろさは一ひら二ひらに過ぎざれは、人々見て今少しひろめよといひければ、
  わが庵はかたもさだめず行く雲の立居さはらぬ空とこそ思へ
 この山にあるほど、またいづこにまれ一人住める時は掻餅といふもの二ひらを舌にのせて一日の粮に充て、飯炊ぐ煩ひを除きけるとぞ。ここにあまたさくらを栽ゑさせて後、所の山人へ申すとて石に彫るうた、
  折り添へてあだにちらすな山柴にまじる桜の下枝なりとも
 須磨の浦に有りける時、久しく絶えたる塩竈を興して、しほやきそむるとて(これ延孝四年卯正月十五日と由日記に見ゆ)、
  絶えてみぬもしはの煙立ちかへり昔にかすむ塩竈のうら
  しほたれし昔の人の心までけふ汲みてしるすまの浦なみ
 わが再興せし塩がまも、またけぶりの絶え侍りけれはとて、
  身にぞしむまたこりすまにやく汐の煙も絶えし跡の浦風
 あらし山のふもと大井の川辺には、弘川とまたく同じきさまの庵をつくる、
  住みかへん秋はもみぢのさがの山容はよしのの花の下庵
 よしの苔清水の奥にしばし住みける跡あり。その外高野の奥竜門の滝の辺など、
世離れし所々に住めるおもむき、その自記『おもひ出くさ』『年並草』などに見ゆ。
八旬にあまりて、和泉国蹲尾の豪富北村氏に身をよせてそこにて致す。体は遺言して弘川におくる。西行と同じさまの墳を築く。著す所、右の二記の外、『似雲聞書』と題して、儀同公の御説をただことに書きつけたるものあり、雑話もまじれり、『耳底記』の体にならへるか。『葛城百首』といふものは、弘川に有りてよめる所にして、信仰の人梓にのぼせり。そのほかありや、えしらず。(下略)




現光寺(げんこうじ)  神戸市須磨区須磨寺1-1-6
土真宗本願寺派 藩架山
 謡曲「須磨源氏」と現光寺
謡曲「須磨源氏」と現光寺は、日向国宮崎の社宮藤原興範が、伊勢参宮の途次、須磨の浦に立寄ると、老樵夫が桜の木陰から現われ、光源氏の一代の略歴を物語り、自分はその化身であることを仄めかす。その夜旅枕の興範の前に菩薩となっている光源氏が兜卒天より気高く優麗な姿で天下り、在りし日の須磨くらしを回想しつつ、青海波の舞を舞って夜明けと共に消え失せるという典美な曲である。
須磨は古来、観月の名所として名高く平安時代の王朝ロマンの主人公光源氏が、複雑なしがらみの中で傷ついた心をなぐさめるために格好の地だったと今を去る千年の昔に生きた紫式部も知っていたのでありましょう。
源光寺、源氏寺とも呼ばれ、境内の老松に月のかかった秋の夜など、殊更流離の源氏の君が藩架(ませがき)をめぐらして詫び住いしたところと語り継がれてきている。
           謡曲史蹟保存会


本堂 本尊:阿弥陀如来像


鐘楼


松尾芭蕉 句碑
  見渡せば ながむれば 見れば 須磨の秋   芭蕉


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