越中前司盛俊墓(えつちゆうのぜんじもりとしのはか)長田村名倉の地の池にあり。
塚印に古松一株あり。
『平家物語』云ふ、
越中前司盛俊は、山の手の侍にて在しけるが、今は落つとも叶はじとや思ひけん、扣へて敵を待つ所に、猪俣小平六則綱好き敵と目をかけ、鞭鐙を合はせて馳せ来たり、押双べて無手と組んでどうと落つ。猪俣は八箇国に聞こえたる健者なり。鹿角の一、二の草刈をは輙く引裂きけるとぞ聞こえし。越中前司も人目には二、三十人が力顕すといへども、内々は六、七十人して上げ下ろす船を、ただ一人して推し上げ推し下ろす程の大力たり。されば猪俣を取つて押さへて動かさず、猪俣下に臥しながら刀を抜かうとすれども、指の股はだかって刀の柄を握るにも及ばず。物を云はうとすれども、余に強う押さへられて声も出でず。されども猪保は大剛の者にてありけれは、しばしの息を休めて、敵の頚を捕るといふは、我も名乗つて聞かせ、敵にも名乗らせて頚取りたれはこそ大功なれ、名も知らぬ頸取りて何にかはしたまふべき、と云ひけれは、越中前司、実もとや思ひけん。本は平家の一門たりしが、身不肖なるに依つて、当時は侍になされたる越中前司盛俊といふ着たり。和殿は何者ぞ名乗り開かうと云ひけれは、武蔵国住人猪俣小平六則綱といふ者なり。ただ今我命助けさせ座しませ、左候はば御辺の一門何十人も座せよ、今度の勲功の賞に申し替へて御命はかりをは助け奉らん、といへば、越中前司大いに怒って、盛俊、身不肖なれども流石平家の一門なり、盛俊、源氏を憑うとも思ひもよらず、源氏もまた盛俊に憑れうともよも思ひたまほじ、悪い君が申し様かなとて、すでに頸をかかんとしければ、正なう候、降人の頸掻くやうや有ると云ひけれは、さらば助けんとて赦しけり。堅田の畠のやうなるが、後は水田のこみ深かりける壊の上に二人ながら腰打ち懸けて息継ぎ居たり。ややあって、緋威の鎧着て月毛なる鳥に金覆輪の鞍置きて乗ったりける武者一騎、鞭鐙を合はせて馳せ来たる。越中前司怪気に見けれは、あれ猪俣に親しう候人見四郎で候が、則綱が有るを見て詣で来ると覚え供。 苦しうも候はぬと云ひながら、近付く程ならは租んずるものを、落ち合はぬ事はよもあらじと思ひて待つ所に、交一段ばかりに馳せ釆たる。越中前司、初めは両人の敵を一目づつ見けるが、次第に近付く敵をハタと守つて則綱を見ぬ隙に、猪俣力足を踏んで立ち上がり、拳を強く握り盛俊が鎧の胸板をばグツと突いて後へノツケに突き倒す。起き上がらんとする所を、猪俣上に乗り懸かり、越中前司が腰の刃を抜き、鎧の草摺引き上げて、爴拳も透れ透れと三力刺いて頚を取る。さる程に、人見四郎も出で来たり、かやうの時は論ずる事も有りとて、やがて頸をば太刀の鋒に貫き、高く指し上げ大音声揚げて、この日来平家の御方に鬼神と聞こえつる越中前司盛俊をは武蔵住人猪俣小平六則綱が討つたるぞや、と名乗りて、その日の高名の一の筆にぞ附きにける。








平盛俊の墓(たいらのもりとし) 神戸市長田区庄山町3-2

北城戸(きたきど)の戦い
西門の敗戦を受けた北門の大将越中前司盛俊は、明泉寺から南へ逃げ延びる途中で、源氏の猪俣小平六則綱と一騎打ちとなります。 むんずと組み付いて戦いましたが、盛綱が優勢となり則綱が降参したためあぜ道で二人が休んでいるところへ、源氏の人見四郎が近づいてきました。近づく敵に気をうばわれてた盛俊は、則綱に襲われ首を討たれてしまいました。なお、明泉寺付近にも、盛俊の石碑が公園内に建てられています。



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