経正琵琶塚(つねまさびわづか)同所にあり。
経正は一谷合戦に討死しけるを、由縁の者ここに塚を築きしなり。この人は、平相国の舎弟修理太夫経盛の嫡男にして、太夫敦盛の兄なり。琵琶の妙手なれば、塚の名を琵琶塚と呼ぶ。この所に青山という琵琶を、経正とともに埋みしといふは非なり。なほ説々多し。みな取るに足らず
 経正は、幼少より仁和寺御室御所に童形にて仕はれしかは、かかる怱劇の中に君の御名残を思ひ出だし、五、六騎召し具して仁和寺殿へ馳せ参り、今日すでに西海千里の浪路に赴き候へは、御暇乞の為参上仕り、その上先年下し預り奉りし青山の琵琶持たせおって候。名残は尽きず存ずれども、さしも我が朝の重宝を田舎の塵に成さん事口惜しう候へば、参らせ置き候なり。もし不思議に運命啓けて、都へ立ち帰る事も候はば、その時こそ重ねて下し預り奉らんと申しければ、御室も哀れに思召して一首の御詠を遊ばして下されける。
  あかずして別るる君が名残をば後の形見につつみてぞおく
経正に御視下されて、
 呉竹の筧の水はかはれどもなはすみあかぬ宮の内かな
さて経正、御前をまかり山でられけるに、数輩の童形・出世者・坊官・侍士・僧侶に至るまで、経正の名残を惜しみ、袂にすがり涙を流し、袖を濡きぬはたかりけり。
中にも、幼少の時小師にて坐せし大納言法印行慶(ぎょうけい)と申すは、葉室(はむろ)大納言光頼(みつより)卿の御子なり。余りに名残を惜しみ参らせて、桂河の端まで打ち送り、暇請ふて帰られけるが、法印泣く泣く思ひ続けたまふ。
  哀れなり老木若木も山桜おくれ先だち花は残らじ
 経正返歌に、
  放衣よなよな袖をかたしきて思へはわれは遠く行かたん
 さて巻いて持たせたる赤旗颯と指し揚げたれば、あそこここに控へ待ち奉る侍ども、あはやと馳せ集まり、その勢百騎ばかり、鞭を上げ駒を早めて程なく行幸に迫ひ付き奉らる。そもそも青山と申す御琵琶は、経正十七歳の時、宇佐の勅使を承って下られけるその時、青山をたまふて宇佐へ参り、御殿にて秘曲を弾じたまひしかば、供の宮人推並べて緑衣の袖をぞ絞りける。この青山と申す御琵琶は、昔仁明帝の御宇嘉祥三年三月、掃部頭貞敏(かもんおかみさだとし)渡唐の時、中華の琵琶の博士廉妾夫(れんしょうふ)に逢ふて、三曲を伝へて帰朝せしに、その時、玄象・獅子丸・青山三面の琵琶を相伝して渡りけるが、竜神や惜しみけん、浪風あらく立ちければ、獅子九をば海床に沈めぬ。今二面の琵琶を渡して、わが朝の御門の御宝とす。村上聖代応和の頃ほひ、三五夜中の新月の色清く、涼風颯々たりし夜半に、帝、清涼殿にして玄象をぞ遊ばされける時に、影のごとくなる者御前に参じて、優に気高き声をして唱歌を日出度仕る。帝、しばらく御琵琶を聞かせたまひて、汝は如何なる者ぞ、いづくより来たれるぞと仰せければ、答へて、われはこれ昔貞敏(ていびん)に三曲を伝へ候ひし唐の琵琶の博士廉妾夫と申す者にて候が、三曲の中に秘曲を二曲残せる罪によって、今魔道に沈淪(ちんりん)仕る。今宵君の御撥音妙に聞こえ侍る間、参内仕る処なり。願はくば、この曲を君に授け奉って仏果を得んとて、青山を取り、転手を捻ぢて、秘曲を授け奉る。三曲の中に上玄石上これなり。その後は君も臣も恐れさせたまふて、遊ばし弾じたまふ事もなかりけり。仁和寺御室の御所へ参らせたまひたりしを、この経正に下したまふとかや。甲は紫藤の甲、夏山の峯の緑樹の木間より有明の月の出でたるを撥面に書かれたりけるゆゑにこそ、青山とは名付けられける(已上、『平家物語』大意)。


清盛塚(きよもりつか) 神戸市兵庫区切戸町1 
 琵琶塚(びわづか)

 もとは清盛塚と小道を挟んで北西にあった前方後方式の古墳石で、その形から琵琶塚と呼ばれた。
 『平家物語』の琵琶の名手平経正(平敦盛の兄)に結びつけて琵琶塚(経正塚)と呼ばれるようになった。
 明治35年に塚の周辺に大石を積んだ上に自然石を彫って建てたが、道路拡張の時に清盛塚とともに現在地に移転した。
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