敦盛石塔(あつもりせきとう) 三谷より西一町にあり。五輪の形に梵字あり。高さ一丈余。それより下は土中に堙まりて見えず。
この堵実は鎌倉北条西園寺入道平貞時、平家一門戦死冥福の為ここに建つる所なり。何の代より敬盛塔と称しけるやらしらず。今は世俗みな敦盛と称して、往来の旅人追善として石を積み塔を建てて菩提を弔ひけるも多く見えたり。
『平家物語』云ふ、
 太夫敦盛卿は修理太夫経盛の三男にして、十七歳の時ここに落足して澳なる船に目をかけ、馬を海へうち入れ五、六段はかり游がせられしに、跡より熊谷直実追つかけ扇を揚げて招きければ、取つてかへし波打際にて組んで討たれたまひぬ。首を包まんとて鎧の直垂を解いて見れば、錦の嚢に入れられたる笛をぞ腰に指されたる。 あないとし、この暁、一谷の城中にて管弦したまひつるはこの人々にておはしけるものをとて、大将軍の見参に入れたりける。
また『盛衰記』には、敦盛の尸骸を父のもとへ直実送り遺しける由見えたれば、ここに堙まるにはあらざるべし。しかれども年久しく云ひ伝へたれは、世俗に従ふも可なり。
   敦盛石塔
 昔斯地有戦場名 昔この地戦場の名有り
 流血染残嫩木桜 洗血染め残す嫩木の桜
 須磨浦風散花夕 須磨の浦風花を夕に散らし
 恰如熊谷打敦盛 恰も熊谷の敦盛を打つが如し
 音は絶えぬ青葉の見えしことし竹  蘺 島
 蛍火やまねく扇の嵐の前       衆 雲
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