HOME > 巻之七 菟原郡








処女塚(をとめづか) また求女塚とも書す。三箇所にあり。
一は住吉川の西、御田村の東田畔の中にあり。塚の巡り、百五十間ばかり。
一は東明村にあり。塚の巡り、百間ばかり、塚上に松樹二十株ばかりあり。
一は味泥村の浜手、大石村の間にあり。塚の巡り、二百間ばかり。これも塚上に松樹あり。
東の塚を西面とし、これを茅渟男とす。土人、鬼塚ともよぶ。
西の塚を東面とし、これを菟原男とす。中の塚を南面として、求女塚と呼ぶ。
相隔つ事、おのおの十五町ばかり。
『万葉集』『大和物語』に載する所なれば、年歴久遠にして、世に名高し。按ずるに、これみな上古の荒塚にて、文人・騒客、俚談を採つて風藻となす。

 『万乗集』巻第九に云く、
    芦屋処女墓を過る時作る歌一首ならびに短歌
   いにしへのますらをのこのあひきそひつまとひしけむ あしのやのうなひをとめのおきつきを わがたちみれば ながきよのかたりにし つつのちのひとしのびにせむと たまばこのみちのべちかくいはかまへつくれるつかを あまくものしりへのかぎりこのみちを ゆくひとごとにゆきよりて たちなげかひおびぴとはねにもなきつつかたりつつしのびつぎくるをとめらがおきつきところわれしたみれば かなしもむかしおもへば
     反歌
  いにしへのささ田をのこの妻問ひしうなひをとめのおきつきぞこれ
 『万』九
  墓のうへにこのえなびけりきくがごとちぬ男にしよるぺけらしも 虫 麿
『大和物語』云ふ。この書は花山院御作とも、一説には在原業平朝臣の三男、在原滋春朝臣ともいふ。
むかし津の国に住む女あり。それをよばふ男ふたりなんありける。ひとりはその国にすむ男、姓はむはらになんありける。いまひとりは和泉国の人になんありける。姓はちぬとなんいひける。
かくてその男ども、とし・よはひ・かほかたち・人のほど、ただおなじばかりなんありける。
心ざしの増さらんにこそはあはめと思ふに、心ざしのほどただおなじやうなり。くればもろともに来あひぬ。ものおこすれば、ただおなじやうにおこす。いづれまされりといふべくもあらず。
女おもひわづらひぬ。この人の心ざしのおろかならずは、いづれにもあふまじけれど、これもかれも月日をへて家の門に立ちて、よろづに心ざしをみえけれはしほびぬ。これよりもかれよりも、おなじやうにおこするものどもとりもいれねど、いろいろにもちてたてり。
おやありて、かくみぐるしくとし月をへて、人のなげきをいたづらにおふもいとほし。ひとりひとりにあひなは、いまひとりがおもひはたえなん、といふに、女、こころにも、さ思ふに、人の心ざしのおなじやうなるになんおもひわづらひぬる。
さらばいかがすべき、といふに、そのかみ、生田川のつらに、ひらばりをうちてゐにけり。かかれば、そのよばひ人どもをよびにやりて、おやのいふやう、たれも心ざしの同じやうなれば、このをさなきものなんおもひわづらひ侍り。けふいかにたれこのことをさだめてん。あるはとほき所より・いまする人あらば、ここながらその いたづきかぎりなし。これもかれもいとをしきわざなり、といふ時に、いとかしこくよろこびあへり。申さんとおもひたまふるやうは、この川にうきてさぷらふ水鳥を射たまへ。それを射あてたまふらん人に率らん、といふ時に、いとよきことなりといひて、いるほどに、ひとりは頭のかたを射つ。今ひとりは尾のかたを射つ。そのかみいづれといふべくもあらずあらぬに、女思ひわづらひて、  
 すみ佗びてわが身なげてん津の一国の生田の川は名のみなりけり
とよんで、このひらばりは川にのぞきてしたりけれは、づぶりとおちいりぬ。おやあわてさわぎののしるほどに、このよほふ男ふたりやがて同じ所におちいりぬ。ひとりは足をとらへ、今ひとりは手をとらへてしにけり。そのかみ、おやいみじくさわぎてとりあげて、なきののしりてはふりす。男どもの親もきにけり。この女の塚のかたはらに、また塚どもつくりて、はりうづむ。時に、津の国の男の親いふやう、おなじ国のをとこをこそ、同じ所にせめ。こと国の人、いかでこの国の土をはをかすべきといひてさまたぐるに、和泉の方の親、いづみの国の土を船にはこびてここにもてきてなん、つひにうづみてける。されば女の墓をは中にて左右になんをとこの塚どもいまもあなる。かかる事どものむかしありけるを、絵にみな書きて、故きさいの宮に人の奉りたりけれは、これがうへを、みな人々この人にかはりてよみける。伊勢の御息所、男の心にて、  
 かげとのみ水のしたにてあひみれはたまなきからほかひなかりけり
女になりたまひて、女一の御子、
 限りなくふかくしづめるわがたまをうきたる人にみえむものかはまた、官、
  いづこなるたまをもとめんわたつみのここかしこともおもほえなくに兵衛の命婦、
  つかのまももろともにこそ実りけれあふとは人にみえぬものからいと所の別当、
  かちまけもなくてやはてん君により思ひくらぷの山は越ゆともいきたりしをり、女になりて、
  あふ事の形見にこふるなよ竹のたちわづらふときくぞ悲しきまた、ひと、
 身をなげてあはんと人に契らねどうき身は水に影をならべつまたいまひとりのをとこになりて、
  おなじ江にすむほうれしき中なれどなどわれとのみ契らざりけん返し、女、
  うかりけるわがみなそこをおほかたはかかる契りのなからましかはまたひとりの男になりて、
  われとのみちぎらずながら同じ江にすむほ嬉しきみぎはとぞおもふ
 さてこの男は、くれ竹のよふかきをかきりて、かりぎぬ・はかま・えぼし・おびなどをいれて、ゆみ・やなぐひ・たちなどいれてぞうづみ、今ひとりはおろかなるおやにやありけん、さもせずぞありける。旅人、この塚のもとにやどりたりけるに、人のいさかひするおとのしければ、あやしとほおもひてみせけれど、さる事もなしと云ひければ、あやしと思ひ思ひねたりたるに、血にまみれたる男、まへにきてひざまづきて、われ、かたきにせめられてわび候にて侍り。御はかししばしかしたまへらん、ねたきもののむくいし侍らんといふに、おそろしと思へどかしてけり。さめて夢にやあらんとおもへど、たちはまことにとらせてやりてけり、とばかりきけは、いみじうさきのごとくいさかふなり。しばしありて、はじめの男きていみじうよろこびて、御とくに年頃ねたきものうちころし侍りぬ。いまよりはながき御まもりとなり侍るべきとて、この事のはじめより語る。いとむくつけしとおもへど、めづらしき事なれは、とひてきく程に夜もあけにけれは人もなし。あしたにみれば、塚のもとに血などなんながれたりける。たちにも血つきてなんありける。いとうとましく覚ゆる事なれど、人のいひけるままなり。
『太平記』日く(求壕にて小山田太郎、新田義貞の身代はりの事)
 時に延元元年五月、官軍の惣大将新田義貞と、武家の将軍足利尊氏と、自ら戦ふ軍なれば、射落とさるれども矢を抜くに隙なく、組んで下になれども、落ち合ふて助くる者なし。ただ子は親を棄てて切り合ひ、郎等は主に離れて戦へば、馬の馳せ違ふ声、太刀の鍔音、いかなる修羅の闘東諍も、これには過ぎじと夥し。さきに一軍して引きしさりたる両方の勢ども、今はいつをか期すべきなれば、四隊の陣一処に挙って、敵と敵とあひ交はり、中黒の旗と二つ引両と、巴の旗と輪違と、束へ靡き西へ靡き、磯山風に翩翻として、入れ違ひたるばかりに、いづれを御方の勢とは見え分かず。新田・足利の国の争ひ、いまを限りと見えたりけるて官軍は元来小勢なれば、命を軽んじて戦ふといへども、つひには大敵に懸け負けて、残る勢わづか五千余騎、生田の森の東より丹波路を差してぞ落ち行きける。数万の敵、勝つに乗つてこれを追ふ事はなはだ急なり。されどもいつもの習ひなれば、義貞朝臣、御方の軍勢を落ち延びさせん為に後陣に引きさがりて、返し合はせ近し台ほせ戦はれける程に、義貞の乗られたりける馬に矢七筋まで立ちける問、小膝を折って倒れけり。 義貞求塚の上に下り立って、乗り替への馬を待ちたまへども、あへて御方これを知らざりけるにや、下りて乗らせんとする人も無かりけり。敵やこれを見知りたりけん、すなはち取り籠めてこれを討たんとしけるが、その勢ひに僻易して近くはさらに寄らざりけれども、十方より遠矢に射ける矢、雨や霰の降るよりもなほ繁し。義貞に薄金と云ふ甲に、鬼切・鬼九とて多田満仲より伝はりたる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜き持ちて、さがる矢をば飛び越え、あがる矢にはきし俯き、其中を指して射る矢をは二振の太刀をあひ交へて、十六までぞ切つて落とされける。その有様、たとへば多聞・持国・増長・広目の四天、須弥の四方に住んで同時に放つ矢を、捷疾鬼走り廻つて、矢を大海へ落とさぬやう拾ひ取りしも角やと覚ゆるはかりなり。小山田太郎高家はるかの山の上よりこれを見て、諸鐙を合ほせて馳せ参つて、おのれが馬に義貞を乗せ奉って、我が身は徒立に成つて追つ懸くる敵を防ぎけるが、敵あまたに取り籠められて、つひに討たれにけり。その間に 義貞朝臣御方の勢の中へ馳せ入つて、虎口の害をぞ迫れたまふ。そもそも官軍の中に義を知り命を軽んずる者多しといへども、事の急なるに臨んで、大将の命に代はらんとする兵なかりけるに、ほるかに隔てたる小山田一人馬を引き返して義貞を乗せ奉り、あまつさへ我が身跡に下つて討死しけるその志を尋ぬれば、僅かの情によつて百年の身を捨てけるなり。去年義貞西国の打手を承つて、播磨に下著したまふ時、兵多くして糧乏し。もし軍に法を置かずは、諸卒の狼藉絶ゆべからすとて、一粒をも刈り採り、民屋の一つをも追捕したらんずる者をば、すみやかにこれを誅せらるべき由を大札に書いて、道の辻々にぞ立てられける。これによつて、農民耕作を棄てず、商人売買を快くしける処に、この高家敵陣の近隣に行きて青麦を打ち刈らせて、乗鞍に負はせてぞ帰りける。時の侍所長浜六郎左街門尉これを見て、ただちに高家を召し寄せ、力なく法の下なればこれを誅せんとす。義貞これを聞きたまひて、推量するにこの者、青麦に身を替へんと思はんや。この所敵陣なればと思ひ誤りけるか、しからずば兵糧に術尽きて法の重きを忘れたるかの間なり。なにさまかの役所を見よとて、使者を遣はして点検せられければ、馬・物具爽かにあつて食物の類は一粒もなかりけり。使者帰つてこの由を申しければ、義貞大いに恥ぢたる気色にて、高家が法を犯す事は、戦ひの為に罪を忘れたるべし。なにさま士卒先んじて疲れたるは大将の恥なり。勇士をば失ふペからず、法をば乱る事なかれとて、田の主には小袖二重与へて、高家には兵糧十右あひ副へて色代してぞ帰されける。高家この情を感じて忠義いよいよ心に染みけれは、この時大将の命に替はり、たちまちに討死をはしたりけるなり。昔よりいまに至るまで、さすがに侍たる程の者は、利をも思はず、威にも恐れず、ただその大将によつて身を捨て命に替はるは常の道なり。武将たる人これを慎しんでこれをおもほざらんや云々。








東求女塚古墳(ひがしもとめずかこふん)  神戸市東灘区住吉宮町1-9



求古墳之碑
鳩不能忘倭樹短草鴫不能忘水澤沼施國民不能出虚歴史跡也是以古蹟保存者獨非保存國粋而巳也永使目睹於古以發揮國民性能厚報本反始念可養成旺盛愛國心也此地古来以求女名而其蹟荒發日久矣依加工以存於後毘焉      大正四年十一月    訓導 森川撰書






処女塚古墳(おとめづかこふん) 神戸市東灘区御影塚町2-10



史蹟處求塚古墳(おとめづかこふん)  史跡名勝天然記念物保存法ニ依リ大正11年3月内務大臣指定。 
この処女塚古墳は、東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳および灘区都通3丁目の西求女塚古墳とともに、古く万葉の昔からひとびとに知られた有名な古墳であります。
大正11年に国の史跡指定を受けましたが、すでに墳丘の一部は道路で削られていました。  
処女塚古墳の整備事業は、国の補助を受けて、昭和54年度から墳丘の整備をはじめ、昭和59年度に完成しました。  
整備に伴う調査の結果、南向きの前方後方墳で、もとの大きさは、全長70m、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mあり、後方部を三段築成、前方部を二段築成にしていたことがわかりました。  
また、墳丘の斜面には石を葺いていましたが、円筒埴輪は立ててなく、数個体分の壺形土器が見つかりました。
濠の状態については明らかにすることができませんでした。
古墳を造った年代は、出土した壺形土器などによって、4世紀と考えることができます。
 昭和59年11月  神戸市教育委員会



小山田高家(こやまだたかいえ)の碑   
延元元年(1336)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に敗走して東明(処女塚近辺)まで来た。
しかし、近づいた追手の矢で馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ。
その窮状をはるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して、塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた。
高家は塚上に留まって敵を防いだが、味方の配色は濃く、ついにこの処女塚の上で討たれてしまった。
『太平紀』に描くこの武勇を記念して、弘化3年(1846)の代官竹垣三左衛門藤原直道が東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて建てさせたものである。

田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌碑 
「古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ 」
この歌は、万葉の歌人、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時の現況と、それから受けた感動を歌ったものである。
古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳と灘区都通3丁目の西求女塚古墳にまつわる悲恋の伝説が言い伝えられている。
この伝説は、二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね、歎きつつ死んでしまった。
それを知った二人の男性も悲しみ後を追った。
女性の墓を中にして、男性の墓を東西に造ったという物語である。
側面には八十一叟正四位下加茂季鷹とある。
その左方に建碑年号と思えるものがあるが明らかではない。
  平成6年3月  神戸市教育委員会






西求女塚古墳(にしもとめづかこふん) 神戸市灘区都通3-1

西求女塚古墳は、古くは「万葉集」に菟原処女の悲恋伝説にまつわる菟原壮士の墓として詠まれ、東灘区の処女塚古墳や、東求女塚古墳とともに、「大和物語」や謡曲「求女塚」などにも登場する古墳として、知られています。
大きさは全長約95m、前方後方墳とよばれる珍しい形の古墳であり、築造当時は斜面全体が葺石で覆われていたと考えられています。
竪穴式石室と呼ばれる埋葬施設に、中国製の鏡や鉄製の剣、刀、槍などが納められていました。
これらの出土品から、この古墳は古墳時代初期の4世紀の初めころにつくられたと考えられ、当時のこの地方の有力な豪族の墓であったと考えられます。
味泥地区のまちづくりの事業のひとつとして、古墳の再整備が計画されたため、平成4年度から、大がかりな発掘調査が行われました。
このときに卑弥呼の鏡と言われる三角神獣鏡が多数発見されています。

 語りつぐからにも 幾許恋しきを 直目に見けむ 古壮士  (万葉集 田辺複麿呂)        
       平成8年11月 灘区役所 神戸市教育委員会




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