伝に曰く、宇多天皇寛平5年(893)武庫郡広田の人岡司氏此の地を開発して浜村といひ、延喜元年天御中主大神を主神に広田の大神5柱を末社として共に鎭祭せしを起源とし、由って岡司宮と称す。 合祀神5柱は、元上の宮と称して本社の北に当る人家の間にありしを明治5年合祀せるなり。 明治6年8月村社に列し、同12年4月県社となる。 吾妻鏡建久3年の條に、武庫御厨小松庄と記せるは此地なるべし。 境内に小松内大臣平重盛卿の供養塔を保存す。 |
西宮神社に御鎮座の恵美須大神は武庫の沖から御来臨になり最初、鳴尾でお祀りしていたと口碑があります。 小松では、その大神が毎年正月9日の夕に押照宮(岡太神社)で高潮や洪水等の災害を災害を未然に静止(しし)して五穀豊穣をもたらす猪(しし)打神事をされると伝えられこの神事の妨げにならぬよう、斎籠(いごもり)をする風習がありました。 これは静止を猪にかけたもので、猪は大神の使わしめと云われています。 当社では摂社に大神をお祀りし、昔話を後世に伝えるよすがとして彫刻家柏木秀峰氏の静止像を設置しています。 |
天象10年(1582)反逆者・明智光秀の部将・四方天但馬守は、備中の戦陣より急遽引返した秀吉を三軒屋で乱戦して組み敷き、くわえた刀で討とうとしたが、不覚にも歯が欠けて刀をとりり落し、後を追ってきた加藤清正に誅されました。 但馬守は無念で、これからは歯の悪い人を治してやろうと言い残したとの風説があります。 この話は白山大神と但馬守との付会です。 白山大神は、和と結び・禳災の神ですが、当地では白山さん、はくさ(歯瘡)さんと転訛し、北向きの歯神さんとして周知されています。 |
平重盛の居館伝承地があったことを示す顕彰碑 かつて「伏松」という小高い丘が岡太社の西南にあり、それが「重盛居館」の伝承地とされた。 重盛は平清盛の長男。「小松内府」と呼ばれたことから、武庫川流末にあって平氏の領有であった「小松庄」に居館があったと理解されるようになった。 本碑は、昭和3年に地元実践青年団によって建てられ、その後いったん西方へ移され、昭和46年に岡大神社境内に移築された。 西宮市教育委員会 |
昭和59年3月23日、西宮市指定無形民俗文化財指定。 本神社では、毎年10月11日の祭礼に、「一時上臈」という紅白の紙製で宝冠状の御幣が奉納される。 この祭礼は南北1つの講により維持され、北講の御幣が女、南講ものが男とされる。 祭り当日には、餅・石榴・栗などの供物を入れた唐櫃に、御幣を立てた藁輪をのせ、これを頭屋から神社へと運ぶ。 社前での祭礼から、頭尾らによる直会へと進む一連の祭式には、かつての氏神祭祀の姿がよく残されている。 西宮市教育委員会 |
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