箕面山滝安寺吉祥院(みのおさんりゅうあんじきちじょういん) 箕面山にあり、天台体験遺聖護院に属す。
  『夫木』   雨しのぐみのおの里の柴垣にすだちはじむる鷲の声      西行法師
    同     みのおやま雲影つくる峯の庵は松のひびきも手枕のもと   鴨長明
  『千載』      みのお寺にこもりて出で侍る暁のおもしろく侍りければ
         木の間より有明の月のおくらずばひとりや山の峯を出でまし  仁和寺法親王覚性
本社大弁財天女 役行者の作。長一尺玉寸ばかり。日本四所弁天の第一なり。近州竹生島、相州江島、芸州厳島、当山等をいふ。木地堂如意輪観音 智證大師の作。長四尺玉寸ばかり。行者堂 役優婆塞自作。長二尺ばかり。鎮守 五社明神・熊野三所権現・三宝荒神・毘沙門天・吉祥天女等を祀る。神水 行者堂の傍にあり。加持水なり。
聖天尊社 当山登り口鳥井の右にあり。役行者苦修練行の時、出現したまふなり。本朝最初の尊天といふ。
箕面滝 本社より十八町奥にあり。巌頭より飛瀉して、石面を走り落つる事、すべて十六丈、滝壷より泡を飛ばす事、珠をちらすごとく・霧を噴く事、雲のごとし。日光これを燭してさいさん目を奪ふ。天下賞して滝の第二とす。滝の上に碧潭あり。これを竜穴といふ。村民旱天に遇ふ時、ここに祈ればたちまち膏雨降るなりとぞ)
  『黄木』  わすれては雨かとぞ思ふ滝の音にみのおの山の名をやからまし  津守国助
   同    ながれてと思ふこころの深きにぞなにかみのおの滝となるべき   後九条
三鈷松 滝の上iこあり。三葉にしてしかもその色四時蒼々として艶しく、滝水日影に映ずる時は光あり。ゆゑに一名三光の松とも。また役行者葛城の峯より三鈷を投げたまふ時、この松にかかりしよりこの名あり。
竜穴 三鮎松の側にあり。岩聞方三丈ばかり。深淵にして蒼色なり。その深き事はかりがたし。
奥飛泉 大滝より六町ばかり奥にあり。飛流八丈ばかり。大滝を雌滝といひ、これを雄滝といふ。
座禅石 奥の滝の上にあり。行者ここにて練行したまふ。錫杖石 同所にあり。行者ここに錫杖を立てたまふ所なり。白竜石 同所にあり。当山弁財天自竜に乗じ降臨したまふ。その白竜化して石と成る。『神社考』に見えたり。
天上嶽 当山の絶頂をいふ。役行者ここより昇天したまふと云ふ。
唐人戻巌 滝道にあり。大岩にして阪路に遮る。むかし来朝の唐使この滝此類なきとて登山し、嶮路とて駕を戻されしよりこの名とす。詳らかならず。
それこの一山は丹楓多くして、秋の末は三千の樹々錦繍のごとく、滝の流は紅を濯ぎ、樵夫は錦着て家に還り、山僧のここらを染めぬも紅の色艶しく、風のかけたるしがらみは筍錦を布くがごとし。立田川の秋の色、高雄の山の夕日かげ、通天橋もここに畳みで、京師・浪花の騒人霜葉を踏んで競ひ来る。長月より時雨する頃の賑ひ楚岸もここにありとぞ思はれける。
そもそもこの山は役健婆塞の開基にして、白雉年中の創建なり。東西の山峯我々として両部の曼荼羅を表し、南北の翠巒燦々として不二の尊体を顕す。滝水の長流万頃の田園を潤す。かつて飛泉の巌石を見るに、左右高く峙つて滝頭もまたしかなり。南方はるかに晴れて流れ滔々とめぐる。その形箕の面のごとし。ゆゑに名とす。
いにしへはこの地に諸常巍々たり。兵乱に罹って荒蕪の後、慶長年中今の地に移す。本社弁財天は後永尾帝の御建立の勅を下したまふ。開基役小角は和州葛城上郡茆原郷の人なり。少して敏悟博覧、ことには仏乗に帰し、年三十二にして葛城に入り巌窟に居したまふ事三十余歳、藤葛を衣とし松果を喰ひ、孔雀明王の呪を持して五色の雲に駕し仙府に遊び、鬼神を駆逐して使命とし、日域の霊区を修歴する事ほとんど遍ねし。一日葛城より乾の方に電光あるを見たまひ、一つの三鮎を投げたまふ。遥かに雲中に入って箕面山滝頭の松にかかれり。すなはち行者この地に至りたまへは、老翁忽焉として現れ、水源の滝窟に座禅したまはば求法ここそのままなるべしと云ひ終はって跡なく去りぬ。行者その教のごとく竜宮城に入り、その時竜樹菩薩出でて行者をここに待つ事久し、この滝地は我が浄土なり。弁財天求法を擁護したまふにより、はやくここに尊影を安置すべし。扶桑の密法永く不退転なるペしとて深秘の大法両部の皆会ことごとく授けたまふ。行者喜悦し霊木をもって弁天の尊像を刻み、祠を建立したまへり。その後大峰開闢あって天之川にもこの弁財天を勧請したまふ。ゆゑにこの山を女人の大峰とぞ称じける。
聖天尊も初めて出現の霊地、三宝荒神もここに初現の名区なり。胎金両部の中台、大日嶺、明王嶽、瓔珞滝等の秘法の閼伽井(あかゐ)あって、真に殊勝霊蹟なり。代々の帝も詔を降して宝祚延長を祈り、時に臨んで行幸の例多しとぞ聞こえけれ。『元亨釈書』『伽藍開基記』等の大意。
箕面富 修正会とて毎年正月朔日より七日の間、天下安全五穀豊穣の祈祷あり。七日の満座に富会とて、この夜四方の諸人競ひ来たつて木札に己が名を記さしめ、三筒の唐櫃の内に入れ観音堂の前に居ゑて、大いに転々して、寺僧玉襷をかけて衣の袖をかかげ錐にて小孔より札を突き出だす。第一の富、第二の富、第三の富と大声にて触れ、その札の姓名を見て修正会秘法lの御守を授く。これを得るものたちまち幸乗たって万宝家に充つる霊験ありといふ。この法会に諸国より来たって自然に富的り神札を得るもの、道中にて宿せず夜通しに帰る。これ福富他へ散らざるの風俗なり。またこの富に的らざるもの、金銀を投じて的りたる者の神札を貴ふといふ。
また二月朔日より三日まで修二会とて官家より奉書を腸ふ例あり。そもそも弁財天は倉稲魂神の垂跡にして稲荷叫神なり。この富会は年ふるき事にて、和歌に富突山と詠じたる事あり。
    『大木』    君が代は富突山のさきざきにさかえぞまさるよろづ代までに   兼 隆


瀧安寺(りゅうあんじ) 箕面市箕面公園2-23
箕面山大吉祥院 本山修験宗 白雉元年(650)に役の小角(えんのおずね)が箕面寺を開基。
後醍醐天皇よりご祈梼の賞として瀧安寺の寺号を賜る。
元仁2年(1225)、永享3年(1431)の大火、天正年間(1573〜92)織田信長の兵火、文禄5年(1596)の震災等により焼失。


山門 寛保4年(1744)桜町天皇より旧御所の御門を下賜


観音堂 本尊:如意輪観音(にょいりんかんのん) 2002年役行者1300年遠忌を記念して再建。


瑞雲橋


庫裏 塔中に三坊あったが、眞満坊、千林坊の二坊は明治40年4月に廃され、寶積坊たけが残る


二の鳥居 瀧安寺の弁財天は竹生島、江ノ島、厳島とともに四弁財天の1つ。60年に一度開帳される。


護摩 4月・7月・11月の年3回、関西一円から山伏が集まり採灯大護摩供(さいとうごま)が行われる。


三の鳥居


弁財天本堂 拝殿 
明暦2年(1656)後水尾天皇が箕面滝側から現在地に移し、再建。社形式になっている


奥殿 本尊:弁財天尊、通称:箕面弁財天  脇尊:毘沙門天、大黒天


行者堂 拝殿


行者堂 奥殿 
主尊:役ノ行者(えんのぎょうじゃ) 脇尊:不動明王(ふどうみょうおう)・蔵王権現(ざおうごんげん)
寛政11年正月25日役ノ行者1100年遠忌にあたり、光格天皇より神変大菩薩の諡号を下賜。


大黒天 絵馬堂に大黒天の祠を設けています。 大黒天尊・恵比須天尊


熊野三所権現(右)・五所明神社(中)・白瀧大明神(左)


役ノ行者像
634年、奈良県茅原で誕生、葛城山で修行。658年、箕面山に到り、龍窟に籠もり修行し悟りを開く。
滝を箕面滝と名付け、側に滝を神格化した弁在天を祭祀し、箕面寺を創建。
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