原田神祠(はらだのやしろ) 桜塚村の南出口にあり。祭神五座、素盞鳥尊・日の神・月の神・櫛玉命・稲田媛命なり。例祭九月九日。荘内十一村の生土神なり。また恒例として鹿の頭を造って神事にわたし、臥舞・起舞といふ事あり。むかし南都春日明神より使に来たる鹿のまねぴなり。



原田神社(はらだじんじゃ) 豊中市中桜塚1-2-18
原田神社の創建については詳らかでないが、社記によれば古くは祇園神祠と称し、白鳳12年(684)に天武天皇が勅祭をもって神宝、神鏡ならびに獅子頭を納められたこと。また、同じ御代に悪疫が流行した際「妖邪退除」(病をおこす邪気を祓いのける)の詔勅を下されて、当社に祈願されたことがしるされています。 以来、皇族、武家の崇敬があつく、時代がくだるにつれて社頭も壮大を極め、最盛時には、東は榎坂村から西は富松村まで、72カ村にわたる氏地の産土神(氏神)として氏子の崇敬をあつめ、西牧社と称しました。 また、足利氏からは神領地を寄進されるなど社頭は壮麗であったが、天正年間の兵火に焼失したといわれる。 現在の社殿は慶安5年(1652)になって再建されました。現在、本殿ならびに摂社十二神社本殿は、豊中市指定文化財建造物になっております。 また、毎年10月9日の晩に行なう獅子神事は、豊中市指定文化財民俗資料になっております。   豊中市文化財保護委員会・豊中市教育委員会

 
狛犬


拝殿


本殿 祭神:須佐之男命 重要文化財(平成5年12月9日指定)
原田神社の創建は、社殿によると奈良時代以前、天武天皇の時代にさかのぼるといわれています。 室町時代には将軍足利家より神領として西牧六車庄の寄進をうけ、東は豊嶋郡榎坂村(現吹田市江坂)から、西は川辺郡富松村(現尼崎市富松)にわたる72カ村の氏神として栄えました。 その後天正6年(1578)には、荒木村重の兵火によって社殿や宝物類を焼失、慶安5年(1652)に再興されました。 もとは祇園社とも牛頭天皇社とも呼ばれていましたが、貞亨5年(1688)に原田大明神の神号を得て現在の社名となりました。 この本殿は棟札により慶安5年(1652)の建立が明らかで、5間社流造の形式をもち、正面に千鳥破風をよび軒唐破風がみられ、屋根は檜皮葺であります。 材料広報ともに上質な江戸時代前期の建築で、全国的にも類例の少ない5間社流造の形式をもち、虹棟(こうりょう)の配置や身舎(もや)とのつなぎ方、妻飾などに配した邪鬼など細部の形式意匠にも特色があり貴重な文化財であります。
    文化庁・大阪府教育委員会・豊中市教育委員会


小宮  八幡大神・春日大神・天満大神・熊野大神


十二神社
この本殿は、3間社流造の形式になり、屋根は檜皮葺、桁行4.10m、梁間は身舎部で1.54m、庇部で1.08mの規模をもち、その基本的な構成は本殿と同様となっています。 身舎正面は5対7対5の割合で柱が配置され、格子戸を脇間ははめ殺し、中間は引き違いにたて、正側三面に香蘭付の縁がめぐっており、高欄の大部分および縁下などの部材は、建立当時から新しくとりかわっていますが、その他の大部分は、当初材が現在も良く保たれています。 また、もとは極彩色が施してあり、その痕跡がいまも僅かに残っています。 建立された時代を明らかにする資料はありませんが、少なくとも寛永を下ることはなく、17世紀初頭の建築とみられています。 しかし、木鼻の形や虹棟絵様など細部形式には桃山時代の特色をもつ様式がみられ、建立年代が桃山時代まで遡る可能性もあります。 
     豊中市教育委員会


御旅所 もと原田地区にあり、明治末に移された。
獅子神事祭 無形民俗文化財
この祭の起りは明らかではありませんが、社伝によると天武12年(684)悪疫退除のため、獅子頭を奉じて天養2年(1145)まで数百年にわたって各地を回ったと伝えられています。 明治以後、毎年9月26日を御出始式とし、その日申の正刻に祭事を行い、9月30日獅子頭を神輿で御旅所に遷し、10月1日本神社前の舞台で獅子の舞が行われます。 舞には、起舞・臥舞・早舞まどがあり、この日は臥舞が行われます。次で、10月2日から8日まで各氏子地区(12地区)の順祭が行われます。 10月9日夕刻本神社境内で行われる宵宮祭は、各氏子地区より持寄られた神輿や氏子達に囲まれ、獅子頭が様々な舞を舞います。 古式をふまえ、素朴さと華やかさを織りまぜながら行われる獅子の舞に、現在も脈々と生き続けている民俗的エネルギーがうかがえます。    豊中市教育員会

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