塩増山大広禅寺(えんぞうさんだいこうぜんじ)五月山の半腹にあり。禅宗曹洞。
釈迦仏 客殿に安ず。脇士文殊・普賢。開基天巌禅師。本願は応永年中池吋筑後守藤原充正の草創なり。この人の法号を大広寺玉堂金公禅定門といふ。文明十四年十月二十四日卒す。墓碑あり、その文に日く。
 清暁朝天眩色徴  清暁の朝天眩色徽なり
 新雲先動袞竜衣  新雲先づ動く袞竜の衣
 千宮拝舞金戀殿  千宮拝舞す金巒の殿
 携得番烟満袖帰  携へ得たり香烟に満ちて帰る
むかしこの山中に池あり。潮の満干ありて海水のごとし。当寺を創建の時池を埋み、その旧蹟を遺して山号を塩増山といふ。



大広寺(だいこうじ) 池田市綾羽2-5
曹洞宗 塩増山 応永2年(1395)天巌和尚が開山。
昔、山上に池があって、その水が海の干満に応じて増減したことから、塩増山の名があるという。
文明(1469~87)の頃、4世祥山和尚に池田城主5代池田筑後守充正(みつまさ)が帰依し、伽藍を整える。
池田家の菩提寺で、充正を開基として祀っている。


山門


山門の白龍
この白龍が毎晩弁天池の水を飲みにいくので、和尚が目の玉を白く塗りつぶすと、飲みに行かなくなったという。


本堂
永正5年(1508)摂津に乱が起こり、池田城主6代池田貞正は細川高国に攻められ、5月10日に城に火を放ち、一族郎党が当山で自刃。その自刃した血の痕の縁板が本堂玄関前の天井に用いられたと云われ、血天井と呼ばれている。


選佛場


辨天霊符龍王


鐘楼 
  梵鐘 池田市内最古の梵鐘
摂津豊島郡池田村盬増山
大廣寺住持比丘澤傳壽勝代
為前備州一相乗実大禅定門
俊獄常賢大禅定門菩提
施入十万檀那逆修過去者也
 旹慶長十四己酉年二月吉辰
 大工我孫子住人藤原朝臣
 田端與右衛門尉正家鑄之


開山 天巌和尚の墓


池田城城主池田氏の墓 2基 池田市史跡名勝天然記念物(昭和53年10月31日指定)
2基とも砂岩製の一石五輪塔である。
東側の墓は地輪(最下部の方形部分)側面に「前備州太守一相乗實大禅定口」とあり、慶長9年(1604)に没した最後の池田城主、池田知正の墓である。
一つはさんで西側は、同じく地輪側面に「俊獄常賢禅定門」とあり、同10年(1605)に没した知正の養子三九郎の墓である。
池田氏の墓は、池田には現在2基しか残されていない。
          平成14年8月   池田市教育委員会


田中桐江の墓

田中桐江(たなかとうこう・1668-1742)
出羽庄内に生まれ、名を省といった。父忠左衛門一信は剣術の達人で、桐江も幼少のころから武芸を学ぶ。
天和3年(1683)、16歳で江戸に出て、元禄12年(1699)荻生徂徠の推挙で柳沢吉保に仕えた。
正徳3年(1713)46歳の時、同僚を斬って柳沢家を出奔。
享保9年(1734)57歳で柳沢家領の池田に移住し、五月山中腹、大広寺西北の東明寺に隠棲。
「呉江社」(ごこうしゃ)という結社を作り、近郷の同人と漢詩集を毎年1冊出し続けた。
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