牡丹花旧蹟(ぽたんかのさゆうせき) 五月山大広寺の境内にあり。また寺に肖柏の画影、和歌あり。
 家 集
    呉織里に隠れ居て名を無庵といふ
  篠の葉の音も便の霜夜かな     肖 柏
  牡丹花肖柏の祖先は、具平親王なり。生涯栄利を厭ひ、呉織里に幽棲して、亭を無庵と号け、和歌を詠じ詩を作り琴を弾じ、また花香酒をもって娯しみ、三愛記を賦し、ある時牡丹の句に、
 春すかぬ花やこころのふかみ草
といふ旬を唫じて、牡丹花と号す。身には野服葛巾を着し、黄牛に騎って徜拝す。その両角に金箔を押す。世人賞して大隠とす。和歌は亜相実隆卿に学び、宗祇を友とす。永正年中天皇その清操を聞きたまひて、便殿に徴見し、つひにあひ唱和したまふ。帝御感の後、辞して里に帰り、かつて摂の乱を避けて、泉州堺津および和州平城に遊ぶ。門子おのおの業を継ぐもの多し。今にこれを奈良伝・抄界伝といふ。大永七年四月八日卒す(年八十五。友人僧古渓その伝を書す。『扶桑隠逸伝』と号す。
 家 集
     永正七年の秋、帝牡丹花を夢見たまふ。藤原実隆卿勅使として宮中に召す。
     その時禁裏御夢想の事ありて宮中の御会に参り侍る。勅によりつかふまつる。九月十三日にて
   空におきて見んよや幾世秋の月   肖 柏



牡丹花隠君遺愛碑(ぼたんかいんくんいあいひ) 大広寺本堂前
隠君肖柏姓源中書王具平之遠裔也蚤脱塵網喜讀書耽唫哦曽選勢語註而入 後土御門帝乙夜之覽 帝愛納之秘府點閲六家詠草抜其萃以献後柏原帝抄録九代集中二千餘首教誨後学其出騎牛塗角為金 観者恠笑自若也垂老卜居於摂州池田顔曰夢庵以四時花次第栽之以弄榜其軒自稱牡丹花性好酒愛香併花為三愛而自作記 帝夢見牡丹花乃命藤公實隆召見便殿親唱和 帝甚悦既復帰於舊隠野服葛巾觴詠而楽後避摂之乱徒居泉州大永七年四月四日卒年八十五元文五年池田好雅数輩胥謀立碑於舊隠之址以余客隠于林莊咸就乞勒顛末予慕隠君之風韻也尚矣豈敢峻拒之哉 七十三翁桐江 富逸撰
文化紀元歳次甲子春三月建 先生製碑文在六十年之前後経事故中継今歳廼克有済
                                 荒木方斌識
文化元年(1804)3月に、田中桐江撰文の碑を65年ぶりに建立。
当初は塔頭泉福院の西隅に置かれたが、同院が明治8年に大坂堂島に移されたため、明治20年に現在地に移す。

牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく・1443-1527)
室町時代中期の連歌師、歌人。准大臣中院通淳の子。
和歌を飛鳥井宗雅(あすかいむねまさ)に、連歌を宗祇(そうぎ)に学んだ。
宗祇とともにしばしば摂津の武将と連歌の興行をもち、池田正盛の庇護を受け、大広寺内の泉福院に隠れ、夢庵(むあん)と号する草庵を結び、有心体の連歌を詠んだ。
池田正盛・正能・長正・正郷・正棟らに和歌・連歌を教え、多くの歌人を生み出した。
永正15年(1518)には戦乱の池田を避けて堺に移り、その地で没した。


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