遊女宮城墓(ゆうじょみやぎのはか) 神崎の北、一町ばかり、田園の中にあり。村民、傾城塚また女郎塚とも呼ぶ。
   『後拾迫』  津国のなにはのことか法ならぬあそびたはむれまでとこそきけ  遊女宮城
 神崎は、いにしへ水門にして、西海に通ふ船ども多くここに泊まりて、賑ひいはんかたなく、遊女の家もありけり。
建永二年の春如月、法然上人、讃岐国へ左遷へたまふとき、山城の鳥羽より船にめされ、この湊に船がかりしたまひ、天王寺の別当慈鎮(じちん)和尚に御暇乞ありし折から、遊女宮城といふもの、小船に棹さして、上人の御船に纜を繋ぎ、上人に向ふて、うきふししげき河竹の流の身、罪業探きを懺悔し、未来をたすからん事を願ふ。
上人、いとど哀れにおぼしめし、无智闇鈍五障三従(むちあんどんごしょうさんしょう)の女人までも、一たび弥陀の本願に帰入し、名号を怠らず修せば、仏の光明の中に摂取して、極重の罪障もたちまち消滅し、西方浄土に至らん事、何の疑ひかあるべしと、勧むる法の声高く、同音に念仏したまへば、宮城とともに五人の遊君、涙は袖の海となり、諸共に合掌し、導きたまへ上人と云ふもあへず、五人一度に河波探き水底へ飛び入り、空しくなる。
人々驚き、櫓械をもつて捜せどもその甲斐もなく、やうやう骸を求めて、この川岸に一つ所に葬り、上人諸共、引導の念仏したまふ。
ここにおいて、遊女塚と呼ぶものならし。
後世、尼崎如来院より、ここに墓碑を建てて、表には六字の名号、黄には遊女五人の名を鐫る。
むかし神崎川に淘上(ゆりあげ)橋といふあり。遊女この川へ身を沈めたる屍を、水中より淘上げしより、橋の名となりぬ。
また、この因縁あるゆゑ、時の人由来橋(ゆらいばし)と呼ぶものなりとぞ。



神崎遊女塚(かんざきゆうじょつか) 尼崎市神崎町34 梅ヶ枝公園内



別々の川であった神崎川と淀川が、平安時代の延暦4年(785)に結ばれ、瀬戸内海方面から京に至る船泊が神崎にできました。河口の港町ろして繁栄し、遊女らが多く集まって来ました。都の人びとからも「天下第一の楽地」と呼ばれ、遊女たちは今様など書芸を泊客に披露し、宴遊に興じる人びとでにぎわっていました。 こと塚は、鎌倉時代の建永2年(1207)法然上人が讃岐国(現在の香川県)に配流の途中、神崎の遊女5人が上人の法話を聞いて、身の罪業を恥じ神崎川に投身しました。上人は讃岐からの帰途この地の釈迦堂で5人の供養をしたという伝承にもとづいています。もとダイセル(株)神崎工場敷地内にあり、一時期溝にかかる小橋として使用されていました。 明治2年(1859)に村民が発見し修復しました。 碑石表面には「南無阿弥陀仏」の名号と、その両側には「阿弥陀仏という女の塚の極楽ハ発心報土のうちの貼るけき」と刻まれ、側面には元禄5年(1692)6月の年紀銘、裏面には遊女5人の名(吾妻・宮城・刈藻・小倉・大仁)が刻まれています。  尼崎市教育員会
碑文は風化のため、正面以外は判読困難です。

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