浦初島(うらのはつしま) 尼崎の南浜をいふ。今は民家つらなりで辰巳と呼ぶ。辰巳のわたし場なり。
ここに初島太神宮のやしろあり。
里人云ふ、むかし信者ありて、念仏をとなへて潮を汲めば、たちまち真水となる。
今もこの磯辺に机でて、念仏をとなへ、水面に円を図して、その中を汲めば、真水なりといふ。
また、辰巳八幡宮、また、尼崎の領主の初島の別荘あり。
    『後撰』      あな恋し行きてやみまし浮国の今もありてふうらの初島     戒仙法師
    『続拾』      見るままに波ぢはるかに成りにけりかすめば遠き浦のはつ島     常盤井入道前太政大臣
    同      思ひやる浦の初島おなじくぼ行きてや見まし秋の夜の月     平清時
    『新族古』      入日さすしほ瀬の波のすゑはれてひがたにちかき浦の初島     称名院入道内大臣
    『新千』      行きてこそ見るべかりけれ暮かかる奥津波まの浦のはつしま     津守国基
    『夫木』      小夜千どりうらのはつしま行きかへり有明の月の空に鳴くなり     範 定












初嶋大神宮(はつしまだいじんぐう) 尼崎市築地2-6-17
寛文5年(1665)尼崎藩主青山幸利の時、海辺の砂州であった築地町は城下町として造成整備されました。
新しい町には別所町を中心に東町・中在家町からも住民が移住しました。
翌寛文6年、別所町にあった初島戎社も築地町に移りました。
この宮が現在の初嶋大神宮です。
浪寄する汀の松の常永久に見るともをかし浦の初島
白砂青松のこの辺りを読んだ歌で、宝暦5年(1755)当大神宮に奉納された公家の歌8首の中の1首です。
古来この辺りは景色も良く、美味な魚や貝も多くとれ、都人にも魅力のあるところでした。
宝永5年(1798)京都の公家町尻家の次男為量が当大神宮神職上村家に19歳で養子に入られることがあり、その方の姪が中御門天皇の皇后となり、その皇子が櫻町天皇になられるという慶事がありました。
神主上村為量の時、新しい社殿の造営が行われ、社運も隆盛となりました。
寛延4年(1751)そのことを祝して水無瀬3位・町尻3位。山井大蔵卿・櫻井刑部権大輔・七条二郎丸が共同で寄進されたのが当神輿です。
ここ数十年巡行はありませんでしたが、平成7年の阪神大震災で屋根の一角が破損し、今後の存続も危ぶまれましたが、平成14年、当地出身で長野県在住の篤志家により250年前の姿そのままに修復され、収納庫も同時に新築寄進されました。
持腰の飾りには皇室の紋章である菊花と五七の桐花が多数使われ、他に類のない貴重な神輿であり、当大神宮が末長く伝えるべき社宝であります。
なお、鳥居の両側にある常夜燈は文化年間、尼崎中在家町の魚市場から生魚を仕入れ、京都の市場で売りさばき、順番を決めて京都御所にも納入していた仲買商(上積屋)仲間が寄進したものです。 平成18年8月吉日



拝殿



祭神 天照大神・事代主命・応神天皇・蛭子命




荒神社



天満宮社



八剣大明神
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