鼓ヶ滝(つつみがたき) 多田川の下流多田院より八丁ばかり南にあり。
左右岩石塁々としてその川幅三間ばかり、急流にして珠を飛ばすがごとく自浪??たり。
いにしへは飛泉十丈余落つる。多田院造営の時この岩石を斫りて用石とす。または洪水の難を除かん為なり。
これより水音絶えて鼓ヶ滝は名のみにして、初夏の頃は年魚ここに聚る事数万に逮ぶ。
近里の漁者手網をもってこれを汲み取る事数斛なり。いはゆる山州宇治川の鮎汲に比せん。




西行歌碑  下滝公園

音にきく 鼓が瀧をうちみれバ 川邊ニ きくや しら百合の 花
12世紀の歌人・西行が 川辺郡と呼ばれたこの地を訪れ、鼓が滝の美しい風景を詠んだのが、夢枕に土地の古老が現れ、その教えを受けて、この歌をのこしたと伝えられる。







多田銀橋 多田院の南8丁は地図の@銀橋辺りとなります。


銀橋の下流側。どう考えても滝と表現するには穏やかすぎます。
山田裕久編『川西の歴史散歩』 (1985)を見ると、
景勝地として古書に伝えられる「鼓ケ滝」は多田神社の南約2kmの地点で、猪名川に架る銀橋とそれに平行する能勢電鉄の鉄橋付近に見られる猪名川の流れだとされています。
『摂津名所図会』には、猪名川の水が岩にくだけて流れる模様が描かれていますが、猪名川に飛泉十丈(約30m)もの落差があった地点はまったく見あたりません。
これを猪名川通船の面からみると、通船願いが天明4年(1784)に実現し、翌天明5年には多田院までの通船延長も申請されています。
猪名川は古くから奥地の木材などを筏にして池田まで運んでおり、明治時代後期までつづいています。
もし川の一部に滝の形状があったとすれば、それ以北の通船や筏による運搬などは思いも及ばなかったことになります。
そこで考えられることは猪名川には滝がなくその付近に滝があったのではないかということです。
そんな観点から調査したところ、通称「鼓が滝」の南端にあたる猪名川右岸の山腹にそれを見いだすことができました。
本来の鼓ケ滝は、猪名川ぞいに並走する県道川西篠山線と能勢電鉄線路の西約50m(矢問字滝ノ原)に実在していました。
山土の落下によって地表が埋没した現在でも、高さは約12mあります。
滝の岩盤は左右が前方に張り出し、奥行の最長9mの弓状を呈した延長16mに達するもので、今も一条の清水が流れ落ちています。
滝の上は宅地開発にともなって削りとられ、鶯台2丁目の住宅地に変わっています。
昭和15年にできた行者の修験場だった場所は、すでに水流がなくなっているものの、古来滝つぼだった所です。
45年に滝の源流で宅地造成されるまでは、滝の水は滝の中央上部に刻まれた不動尊像から左端付近までの間、約4mにわたって流れ落ちていました。(要約)



龍王明神
銀橋下流に祀られていました。
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