勝親の父は武田信玄の子勝頼といわれています。 信玄の死後勝頼は天正3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川連合軍の鉄砲隊のために大敗してしまいます。 天正10年(1582)の天目山の戦いで敗死したため、勝頼の子雄親は甲斐国から逃げ、当時西摂津の戦国大名であった池田信輝をたよって富田(とうだ・現在地)の地に住みついて亡くなったといわれています。 史実と不明の部分が多いのですが、雄親は『甲斐国志』では「武田勝頼の第三子で、勝親は勝三または勝近ともいう」とあり、墓碑の銘文の撰者は山県長周といわれ、彼は武田信玄の勇将山県昌景の後裔ともいわています。 『国元』編さん作業より以前に墓が建立されておるために、なんらかの結びつきがあるのでしょう。 尼崎市教育委員会 |
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