武田勝親墓(たけだかつちかのはか)  富田村善念寺にあり。
武田勝親は甲州武田信玄の嫡孫にして、勝頼の子なり。
天正十年武田家没落の時、山州醍醐密経院は勝頼の縁者たるにより、家臣粟原左衛門尉、この幼児を抱き、ここに蟄して養育し、
武田左衝門と号し、大坂石山本願寺に荷担して、家臣栗山とともに籠城し、主君の仇を報はんと欲す。
静謐の後、勝親、僧と成り、法号を善悦と名乗り、この寺を創す。
その後、天和二年六月十九日寂す。年百三歳。
今、浄土真宗として、京師輿正寺門従に属す。




善念寺(ぜんねんじ) 尼崎市東園田1-105-2




武田勝親の墓(たけだかつちかのはか)  
勝親の父は武田信玄の子勝頼といわれています。
信玄の死後勝頼は天正3年(1575)長篠の合戦で織田・徳川連合軍の鉄砲隊のために大敗してしまいます。
天正10年(1582)の天目山の戦いで敗死したため、勝頼の子雄親は甲斐国から逃げ、当時西摂津の戦国大名であった池田信輝をたよって富田(とうだ・現在地)の地に住みついて亡くなったといわれています。
史実と不明の部分が多いのですが、雄親は『甲斐国志』では「武田勝頼の第三子で、勝親は勝三または勝近ともいう」とあり、墓碑の銘文の撰者は山県長周といわれ、彼は武田信玄の勇将山県昌景の後裔ともいわています。
『国元』編さん作業より以前に墓が建立されておるために、なんらかの結びつきがあるのでしょう。
 尼崎市教育委員会

HOME > 巻之六 河辺郡
inserted by FC2 system