鷹尾山法華三昧寺多田院(たかをさんほっけさんまいじただのいん) 多田荘内にあり。真言宗。南都西大寺より転住。
住吉参籠の時
  松陰の浪にうかべる月よりもふかくぞたのむ住吉の神      源満仲公
本殿多田権現 祭神五座 中央源満仲公 左間源頼信・源煩義、右間源頼光・源義家。満仲公の肖像は御歳二十四歳の時、初めて源の姓を賜ふ。その砌の御容を五十有余歳の時みづから彫刻したまふ神影なり。連銭葦毛の馬に騎り、緋威の鎧を著し、金鍔鮫鞘の太刀を佩き、御手の左右に弓箭を携へたまふ尊形なり。
神廟 本社の奥にあり。中央満仲公、東の方頼光公、その外左右に連枝。西の方足利将軍十三代までの遺骨を蔵む。
    満仲公御遺訓
     吾が没後、神をこの廟窟に留め置き、弓箭の家を護るべし。
     しかのみならず、当院の鳴動をもって、兼ねて応に四海の安危を知見すべし。
   また日く、
    源家の安危は当院の盛衰に依るべし。
                          満仲在判
文明四年八月十七日鳴動の時、将軍足利義政公祝詞に云ふ、正二位万代守護権現と神号を献らる。また近年元禄九年丙子八月二十六日詔して正一位多田権現を腸ふ、勅使藤波従四位上神祇権代副兼左京太夫大中臣徳忠朝臣なり。
正堂 中門の外西の方にあり。釈迦仏を安ず。忍性菩薩の作。
本地堂 中門の内東の方にあり。不動尊を安ず。
六所社 釈迦堂の西南にあり。天照大神・住吉・熊野・春日・稲荷・賀茂等を祭る。
弁財天杜 中門の外六所の北にあり。青竜権現・善女竜王・輪蓋竜王を祭る。
末社 愛宕・多賀・三宝荒神・大将軍。
天満宮 中門の東にあり。
青面金剛祠 天満宮の南にあり。
御供所 中門の内嚢の方にあり。蛭子・大黒を祭る。
拝殿 本社の前にあり。
中門 拝殿の前にあり。
鐘楼 中門の外にあり。
惣門 前に多田川あり。
それ多田院は摂津守源満仲公の霊廟なり。円融院帝御宇天拉元年の創建にして、源賢僧都ここに寺職したまふ。この僧都はすなはち満仲公第三男美丈丸なり。
そもそも天に日月星辰あり、地に山河草木あり、尊卑上下して君と成り臣となる。君はすなはち皇帝・王后、臣はすなはち源平藤橘の国姓なり。いはゆる聖武帝、蔦城王に始めて橘氏を賜ふ。天智帝は内府鎌足をもつて始めて藤原氏を賜ふ。桓武帝の 皇孫鷹望王をもつて始めて平氏を賜ふ。源氏は人皇五十六代清和帝の後胤なり。この君の第一宮月明親王譲位受禅ありて、陽成天皇と号し奉る。第六宮中務卿正四位上貞純親王は一条大官桃園宮に(旧蹟『京の水』に出だせり)住みたまふ。御子を経基王と申しける。第六の皇子の御孫たるにより世に六孫王とぞ称しけり(旧跡『京の水』および『都名所図会』に出だせり)。
この王の御簾中は武蔵守橘朝臣敏有の息女にして、延喜十年に婚姻ありて、程なく妊身とならせたまひ、同十二年四月十日御田誕ましましけり。成長したまひては文武兼備の名将、和歌の達人多田満仲公とはこの若君なり。若冠の時父六孫王とともに出陣したまひ、関東にては平将門、九州にては純友等の強敵を減し、ある時住吉の瑞籬に参籠したまひ、七日七夜の間渇仰祈念を凝らし、再拝傾笛の後霊夢を蒙り、この多田荘に赴きたまひ、九頭の毒蛇を平げ、天禄元年三月十五日多田荘に入城したまふ。これを新田城とぞ号けちる。本来神明授与の地なれば、地の利の.勝たる事は論ずるに足らず。山岳崎嶇として馬蹄逮はず。城壁凸出として弓精に掛からず。当国第一の要害なり。
二十四歳の御時始めて源の姓を腸ふ。 これによって清和源氏の始祖とす。この時の肖像を御年半百の頃、みづから彫刻したまふ。これ当院の神体なり。六十五歳の時薙髪したまひ、法号を満慶と称す。七十六歳の時、華山上皇寛和二年当山に行幸ありて、勅して法諱を覚信と改む。美丈丸の命に幸寿丸の替はりたるを聞きたまひ、悲歎慟哭し無常のはるたきを観じ、仏門を深く帰依、横川の源信僧都に師資の契浅からず。なはも後世の設にとて、城を去る事二十余町西に当たつて一寺を建営し、これを法華三昧院とぞ号したまふ。仏堂・香台・宝塔・鐘楼・僧院・庫裏・方丈に至るまで、荘厳を尽くし美麗を飾り、数月の経営功成りぬ。かくて供養の日には横川の良源僧正を請し、御弟子三十人導師に従つて入堂す。幔幕の東西に列居し、左右の伶倫・鳳笙・竜笛を調べて万秋楽を奏す。導師は願文を高らかに読み上げて数刻に及ぶ。院内庭上に群集して膝を重ね肩を峙だつ。 聴衆感涙を落ときぬと云ふ者なし。法会すでに終はりしかは伶人また舞楽を奏す。この後導師二炷の香を拈じて施主大檀那二世悉地満足と祝したまへは、御布施の役に候ひける殿原、金銀・珠玉・綾羅・錦繍は申すに及ばず、倭漢の珍宝山のごとく積み上げたれは、輝き渡つて見えにけり。事も愚かや。この土地は住吉大別神より授与したまひし霊場なり。その後長徳三年八月二十七日、侍臣をして、かの聖語を遺し安拝にして逝去す。寿八十六歳とぞ聞こえし。遺命に奉じて当山に廟す。まことに聖訓虚 しからず。今に至つて霊瑞新たなり。また遺詞によつて飼鷹をことごとく放たれたり。されども年来の契を忘れず、その境内を去らざりけり。ここによつて山号とぞしたまひけり。
その後忍性菩薩、中興して道化弘く振るふ。百四代後土御門院文別四年八月十七日、菅原朝臣在数の上卿を勅使として賜位を授け、また寛文年間に至つて、将軍家より有司に命じて当院を再営ある。これ今の殿堂なり。多田の神宝には貞純親王の御真翰、満仲公所持の弓箭、住吉神霊夢の御記の御真筆、御太刀(伯耆国安綱の作。鬼切丸と号す)、頼光公・頼信公・頼義公・義家公等の御指旗、三条小鍛冶、金剛兵衛等名作の太刀、その外長治二年二月の固定、文明四年八月宣命ならびに位記、建武以降奕代将軍家の喜捨文、細川勝元・高国の願文、赤松・佐々木書簡等を宝庫に蔵む。まことに当院は風色真砂にして、鷹尾山の皎月、多田川の清流、南に広野を臨み、村落路斜また佳境にして閑情を慰するに足れり。




多田神社(ただじんじゃ) 川西市多田院多田所町1-1
多田院法華三昧寺。平安時代中期の天禄元年(970)源満仲により創立。
清和源氏の祖満仲の廟所として、鎌倉・室町・江戸幕府の保護により発展。
戦国時代の兵火で荒廃するも、江戸幕府4代将軍徳川家綱のときに再建。
維新の神仏分離で神社となる。
昭和26年(1951)国の史蹟に指定される。


南大門


随神門


拝殿


本殿


天満宮


田尻稲荷社


厳島神社


六社神社

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