正玄寺(しょうげんじ) 塚口村にあり。
京師興正寺の懸所なり。門徒御坊、あるいは御堂と称す。
応永十六年八月、興正寺性曇上人、摂州経回の時、当村の門徒祐信といふ禅門、性曇上人の教化を蒙り、信心厚く、つひにこの地を寄附して興正寺抱所とす。摂州末寺五十余箇所の触頭なり。
織田家の制状、その外、天正・慶長己後、将軍家古証文数通あり。
       禁 制     摂州塚口
   一 軍勢甲乙人等、乱妨狼籍の事
   一 竹本を伐採の事、付けたり陣取りの事
   一 矢銭兵粮を相懸くるの事
   右条々堅く停止せしめ訖んぬ。若し違犯の族においては、たちまち厳科に処すべき者なり。よって下知すること件のごとし
        天正六年五月 日    信長判
名木藤(めいぼくのふぢ) 寺内庭中にあり。興正寺十四世證秀上人、ここに来たつて、自ら植ゑたまふとぞ。
昔松(むかしまつ)書院の庭にあり。高さ九丈。株の亘六尺余。







正玄寺(しょうげんじ) 尼崎市塚口本町1-12-26
真宗興正派 興正寺塚口別院

尼崎地方の一向一揆は、塚口御坊が中心であったとしるされています。
この御坊は、応永16年(1409)に性曇上人が建てたと伝えています。
性曇上人が尼崎に来たとき病気になり、Tヵ月余り滞在しました。
このとき入門した祐信が発起人となって、上人の許しをえて堂舎を建てたのが塚口御坊となりました。
そののち、細川勝元と山名持豊とが応仁2年(1468)に争ったとき、広根(川西市)の最徳寺、多田(川西市)の光遍寺、箕輪(豊中市)の超光寺の3ヵ寺が川辺郡・豊島郡・能勢郡の末寺や道場などで組織した一揆の中心になっていたことを物語っています。
塚口御坊が方2町(約200m四方)余の境内のまわりに土居(土塁)を巡らし、さらに堀を巡らして戦国時代の城の構えを備えていました。
そのために塚口城ともいわれています。 ここが城として用いられたのは織田信長と荒木村重との戦いのときです。
塚口御坊の壊滅後は、正玄寺がその跡を引き継いでいます。   尼崎市教育委員会



鐘楼

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