紫雲山中山寺(しうんさんなかやまでら) 中山にあり。古は山頂にあり。天正年中以後ここに遷す。古義真言宗。僧舎五坊。
   『夫木』     冬寒み猪名の中山越ええくれば楢のかれ葉に霰ふるなり    途 経
本噂十一面観世音 三体を金堂に安置す。中尊は聖徳太子前世舎衛国に生まれたまふ時、-鐫毎に三礼して作りたまふ尊容なり。長五尺ばかり。左運慶の作、右湛慶の作、おのおの長三尺五寸。西国巡礼所二十四番。毎歳三月中旬・八月中旬無縁経修行。七月九日千日詣。
薬師堂 金堂の西にあり。恵心僧都の作、座橡、長四尺ばかり。
地蔵堂 金堂の東にあり。慈覚大師の作、長二尺。また大日如来を安ず、弘法大師の作。
太子堂 地蔵堂の東にあり。上宮太子十六歳御自作の尊像を安ず。
食堂 下段東の方にあり。五百羅漢像を安す。
十王堂 同所食堂に隣る。冥府十王を安ず。
白鳥窟 下段の西の方にあり。俗に石唐櫃と云ふ。忍熊王廟なり。
弁財天祠 上段西の方にあり。王子窟より出現。
護摩堂 上段にあり。
愛宕社 山上四町ばかりにあり。
鐘楼 下段にあり。
札納所 下段鐘堂の東にあり。
二王門 外、金剛力士二王を安ず。内、駒犬二躯を置く。
恵日菴 下段の東一町ばかりにあり。不動尊を安ず。弘法大師の作、長二尺ばかり。この庵室智竜和尚の開基にて幽棲閑寂の地、当山蜜法修行の所なり。
奥院 本堂より山上にあり。坂路の半にト部左近基あり。播州三木の人にして慶長年中当山に閑居す。
本社 忍熊王・疫神・大中姫の三座を祭る。
  『日本紀』日く、
  伸哀天皇二年、春正月の甲寅の朔甲子に、気長足姫尊を立て、皇后とす(神功皇后)。 これより先、叔父彦人大兄が女大中姫を娶つて妃と為し、熊皇子を生む。
大悲水 本社の右にあり。当山の名水なり。掬すれは疫を除くといふ。爪形天神 奥院の行路十七町目にあり。
駒蹄石 奥院より一町ばかり山上にあり。聖徳王驪駒に騎つて岩上に立ちて霊区を臨みたまふ所なり。今に蹄の址多くあり。
疱瘡神 本社の傍にあり。症の疫難を免る。
夫婦石 奥院の坂路十一町目にあり。巨巌雌雄双ぷ上に松樹あり。
小堕峯 当山艮十八町にあり。頂嶺率都婆に似たり。太子仏舎利を蔵め、十方を結界して魔陣を降伏したまふ。守屋が霊魂たちまち生天の姿を現ず。今天宮卒都婆嶽といふ。
独鈷尾別所院旧迩 当山にあり。むかし宇多帝の勅願御祈祷所にして、仏院多く造立したまふ。その後満仲公祈願所として愛染堂・護摩堂をいとなみたまひ、寺産として八十余町の田園を寄附したまふ。寿永・元暦の兵乱に回禄の災の後、源頼朝公御再興あり。
美文丸学問所 当山中之坊といふなり。旧跡山中にあり。
勅使川 当寺門前の東にあり。
駒足洗川 当山の西にあり。上宮太子駒の足を濯はせたまふながれなり。
それ当山は郡内第一の名勝にして、香台青漢に挂り、鐘声白雲に和す。ことには山中に桜樹多くして、風景麗しく、弥生の花盛に登臨すれば帰路を忘る。山嶺に至れば尼崎・西宮の浦々邃に見えて、沖の船ちひさく、麓の小田は綾織のごとく鮮やかにして、風光斜ならず。そもそも当山は仲哀天皇の先妃大中姫薧じたまふて後、猪名の山辺大柴谷に葬り奉る。すなはち今の堂舎の地にして古の下院なり。
この皇妃の生みたまふ王子を麛坂王・忍熊王と申し奉る。神功皇后に敵したまふによりたちまち滅したまひて、兄の麛騎坂は六甲山に葬し、弟の忍熊は宇治の川瀬に身を沈めしを難波浦に流れ霊魂崇をなして村民を悩ませり。この事天聴に達し、八祖連をして先母の側に蔵しける。応仁天皇祭祀として勅使大柴を遣はさる。これより勅使川といふ名あり。
忍熊の棺を開き見るにたちまち白鳥と化して岩間より霊泉涌き出づる。すなはちここに大中姫・忍熊王の二神を崇め、この泉を大悲水と称す。これを掬する者厄難病苦を免るるなり。
厥后聖徳太子四天王寺を創する時、逆臣守屋大連霊魔となり仏道を障碍す。太子これを三宝に祈りたまふに、たちまち退き天人影向して告げて日く、難波浦より北方に当たって紫雲靉靆たる霊場あり。太子訪ねてこの山に登り、紫雲をもつて山号とし梵利の功成って百済の恵聡・恵便の二僧を延いてここに処しむ。山の麓に川あり。太子駒を洗ふゆゑに名とせり。養老二年和州長谷寺徳道上人暴に往生して閻魔王宮に至る。焔王日く、閻浮日城に三十三所の観音の霊場あり、一度その地を踏むものは悪趣に堕せず、卿本土に還つて人民を勧めて巡礼なさしむペし。すなはち宝印を腸ふ。徳道すでに甦つて宝印手に在り。石函に入れてこの山に蔵む。これより人を勧めて弘通しければ信従するもの夥し。
その後二百歳を歴てやうやく廃し行ふ人なし。ここに石川の寺僧仏眼上人巡礼の功徳を念じて、ことに華山法皇に奏す。その頃書写山の性空上人夢に琰魔宮より請じて法華を誦す。性空日く、末世の衆生多く濁悪に染む。いづれの法をもつてこれを救はんや、焔王日く、嚮に徳道上人に嘱して巡礼観音の事を告ぐる。性空夢覚めてすなはち奏す。法皇二僧の言を感じ宝印を叡覧ありて性空・仏限と共に霊迹を巡拝したまふ。またその後後白川院もまたこれを巡礼したまふ。国人これに効ふて今に至るまで絶えざるなり。これより先釈慈信上人当山の本尊に啓して仏告ほぼ多き事『元亨釈書』に詳らかなり。
当山三鈷峠にしてその中間なれば中山寺と号く。あるいは極楽国土の東門中心に相当たるゆゑ名付くるともいへり。和歌には猪名の中山と詠めり。古は殿堂巍然として今の奥院の山嶺にありて僧坊八十院に及ぶ。天正の兵火に罹りてみな灰燼となる。その後今の地下院に遷して豊臣秀頼公しばらく仮に御建営したまふなり。


中山寺(なかやまでら) 宝塚市中山寺2-11-1
真言宗中山寺派大本山 紫雲山


鐘楼堂


大黒堂


寿老神堂


閻魔堂


五百羅漢堂




本堂 本尊:十一面観音


護摩堂


開山堂




大師堂


子授け地蔵堂



亥の子七地蔵


阿弥陀堂


宝蔵


鎮守社


大願塔


蔓霊棟


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