神秀山満願寺千手院(しんしゆうぎんまんがんじせんじゆいん) 多田院の西南にあり。古義真言宗。伝へ云ふ、昔素盞烏尊降臨の地なるゆゑ神秀山と号す。
金堂無量寿仏 開山勝道上人の作。
常行堂薬師仏 行基菩薩の作。
観音堂十一面観世音 聖武帝御宇、神亀元年三月下旬、比叡山の麓衣川の川上に瑞光あり。地人、荒木・井口・富田・江口・佐伯・坂本等の氏士、これを伝へ聞きて、六士相ともにその光源に至るに、川河異香薫じ、一つの窟ありて、これを探り見れば、仏像一躯を得たり。巌上に置きておのおの拝礼するに、正しく千手大悲の尊像なり。六十歓喜して仏像を負ひて郡内坂根村に安置す。時に勝道上人詔をうけて当寺を草創し、かの大悲の像をここに遷し満願寺開祖となれり。
釈迦堂 弘法火師の作の釈尊を安ず。
鎮守 牛頭天皇・護法善神・三宝荒神。
美丈丸塔 本堂の傍にあり。
幸寿丸塔 同上。
仲光塔 同上。
多田源氏一門塔 伊豆守国房(頼国朗臣の次男なり)出羽守光国(国房の嫡男なり)下野守明国(頼国の嫡子三河守頼綱の長子なり)下総守仲政(頼綱次男なり)山県三郎国直(頼綱三男)摂津守行国(多田太郎明国嫡男)兵衛太夫蔵人国基(国直長男)
法華塔 観音堂の傍にあり。八幡太郎六代孫足利尾張守家氏の祖母敬法尼妙阿弥陀仏塔なり。乾元九年建塔。前に石碑あり。寛文八年造立。
二王門古礎 当山の入口にあり。
鐘楼 院中にあり。
宝蔵 美丈丸着初めの鎧・太刀を什宝とす。その外万寿・寿永以来、国宝・庁宜・将軍家の願文・告牓の書軸を蔵む。
  『伽藍開基記』に日く、
それ、この寺はむかし勝遺法師の開闢なり。この人は若田氏にして、下野国芳賀郡の産、妙年にして俗塵を出でて勝乗を鑚仰し、輿武帝神亀元年に満開寺を創し、すなはち千手観音を安ず。勤修精進して大いに四衆を利し、その像霊応響のごとし。祈願満たずといふ事なし。ゆゑに号して満願寺といふ。時の人、満願上人と呼ぶ。すでにして本州に還り、日光山に登り精藍を創す。
その後、朱雀帝承平年中、摂津守源満仲公多田城を構へて居す。その時、当山の霊区を崇み、国家の冥福を延んとて、この寺を帰依し、満仲季子に美丈丸といふあり。恵心僧都に投じて髪を薙り、受戒して円覚と号す。のちに源賢と改む。錫を移してここに居し、当山二世の開祖として道化ますます盛なり。
武蔵前司平泰時、三層宝塔を建てらる。 すなはち八条若狭前司の夫人、阿弥陀三尊を坊中に奉ず。また建久二年、最勝園寺貞時楼門を立て、二金剛大力士を安ず。
また法華堂あり、普賢大士の像を安じ奉じて弥陀仏を大殿に置く。また奥院あり、
千手大悲の像を安ず。あるいは常行堂には無量寿仏を置く。その外、経蔵・鐘楼・食堂・浴室有りて、実に大伽藍たり。
その後、後醍醐帝正中二年天台座主二品法親王奏して官寺となす。ここにおいて、いよいよ光耀を増し、文武百僚車駕門に墳し、おのおの私田を捨て香積を資く。
ゆゑに男女高卑礼謁するもの市のごとし。後祝融氏の為に廃せられて皆灰燼となる。ただ奥の一院のみ事なし。慶安年間に至つて寺僧諸の檀信に募つて、またこれを重興す。
寺の南に瀑布あり、最明寺と号く。古このほとりに古寺あり、ゆゑに名に呼ぶとぞ聞こえし。




満願寺(まんがんじ) 川西市満願寺町7-1
聖武天皇の勅願により勝道上人が創建。

山門
  
木像金剛力士立像 明治初年多田院より移された。

本堂 本尊:千手観音菩薩

毘沙門堂 木造毘沙門天立像

観音堂 木造千手観音菩薩立像 奥の院を明治時代に現在地に移転

茶枳尼天

八幡宮

石造九重塔 付 法華塔移建碑(国指定文化財)

三廟 藤原仲光 美女丸 幸寿丸

源家の七塔 源国房・光国・明国・仲政・国直・行国・国基の供養塔

坂田金時之墓
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