久々知妙見堂(くくちみようけんどう)久々知村広済寺にあり。日蓮宗。正徳年中再興せり。
本尊妙見尊 長七寸。天徳元年多田満仲公の勧請なり。当村の生土神にて、例祭九月十日。
寺説に云ふ、むかし当村に寺井氏といふもの開扉せしに、たちまち悩乱して狂死す。その後、この社頭の神籬の竹木を猥りに伐り収るものあり。これも眩乱して樹上より逆に落つる。また、産婦の穢は六十日を忌むなり。これを犯す時は崇ありとぞ。
広済寺はもと禅刹なり。その後、日蓮宗の沙門日昌、この妙見尊の示現を蒙り、ここに来たり、正徳四年二月十五日、この寺を授かり、同年九日、官に訴へ、法華道場とす。この時初めて開扉するに、中央は妙見尊、左は諏訪明神、右は牛頭天王なり。妙見尊の神像は、衣冠束帯なり。祭神、実は国常立尊なりとぞ。
日蓮上人像 広済寺本堂に安ず。大覚僧正の作。本朝三体のその一なり。足利尊氏公の四男関東の官領左馬頭基氏の嫡子、左兵衛督氏満、尊敬の記文あり。中頃、備前国にありて、日昌上人ここに安ず。ほば霊験多し。
矢文石 社前にあり。源満仲公の矢文石といふ。由緒不詳。





廣済寺(こうさいじ) 尼崎市久々知1-3-27
日蓮宗 久々知山
もと禅宗の古刹で、南北朝時代直前の元弘3年(1333のに戦災で荒れ寺となっていたのを、正徳4年(1714)日昌上人が法華道場として再建し、近松門右衛門はその際、建立本願人として貢献した。俗称、近松寺



本堂 


妙見堂(開山堂) 日昌上人を祀る。
明治元年の「神仏分離令」で、旧妙見宮にあった北辰妙見大菩薩・牛頭天王・諏訪大明神の御神体を遷す。 



須佐男神社(すさのおじんじゃ)  尼崎市久々知1-3-28
当社は、妙見、牛頭天王ほかを主神とする神仏習合の社でした。明治初年の神仏分離政策により、妙見祠のむ転出し、須佐男神社と改称しました。同社は平安時代の天徳元年(957)、摂津一帯に勢力を持っていた源氏の棟梁、多田満仲の勧請により建立されたと伝えられています。 妙見とは、北斗妙見菩薩を指し、北辰星(北極星)を中心に北斗7星を神格として祭ったものです。これは大阪府下の能勢妙見宮を川西に本拠する多田満仲がとくに崇敬したため、その配下の武将も同じ妙見信仰を持つようになったと考えられています。                             尼崎市教育委員会


拝殿  元和2年(1616)に再建、昭和60年5月「昭和の大修復」がなされる。


本殿 祭神:須佐男命


矢文石(やぶみいし) 源満仲公が多田(現川西市)に向って矢を射るのに足をかけた「矢文石」
住吉大神の神託によって矢を放つと、池田五月山から戊亥(西北)の方向の谷に落ち、頭が九つある大蛇に当たっており、それを九頭の明神とあがめ祀ったという。
HOME > 巻之六 河辺郡
inserted by FC2 system