崑崙山昆陽寺(こんろんさんこんようじ)昆陽庄寺本村にあり。
古義真言宗。僧坊六坊
本尊薬師如来(本堂に安ず。開山僧正行基の作。長半丈六。日光・月光・十二神将左右に安ず。近年出現黄金仏、薬師堂内脇役御厨子の内に安ず)開山堂(中央、行基菩薩。左、文殊。右、普賢。また、脇士に持国・多門天を安ず。ともに行基の作。柊木をもつて彫刻す。頭は近衛関白家煕(いえひろ)公の真筆)大日堂(中尊、金剛界大日如来。左、弥陀。右、釈迦。ともに行基の作。また堂内に弘法大師の像を安す。長三尺五寸ばかり。また大師の旧蹟四国八十八箇所の本尊をことごとくここに模して堂内に安ず)観音堂(十一面観音。左、准胝観音。右、馬頭観音。また西国三十三所の観音を模し、ここに安ず)護摩堂(不動尊を安ず。額は六条中納言藤原有藤卿筆)弁財天社(堂前、池の中島にあり。側に柊木二株あり。行基菩薩、尊容彫刻の余木をここに植ゑたまふなり)歓喜天社(本堂の後にあり。享保二年四月七日出現の尊像を安す)梵天王社(開山堂の西にあり)金剛童子社(梵天王の傍にあり)鐘堂(池の南にあり)黄金薬師出現所(本堂の西にあり。享保二年四月五日、この所より出現)開山塔(本堂の乾、林中にあり。行基菩薩の墳なり)二天門(本堂の南にあり。内の方。持国・多門天を安ず。外の方、金剛力士の二天を安ず。いにしへの中門なり。大門を略して、内外安ず。額は崑崙山と書す。伏見宮邦永親王の真筆なり 大門旧蹟(二王門の南、一町ばかりにあり。今古松三十株ばかり栽うる)
『延喜式』曰く、
故僧正行基の昆陽院の雑事は、摂津の国司と別当僧と共に検校を知ると云々。
『三代実録』云ふ、
貞観十八年三月三日、是の日、山城国泉橋寺の申し牒に曰く、故僧正行基五畿境内に四十九院を建立す。
それ当山は、歳月累り殊勝の古寺にして、鐘声香台に響き、清月老松を照らして、満地の落花春寂々たり。かつて聖武天皇の御宇、僧正行基、国家鎮護・衆生利益の為に、猪名野篠原を点じ、神亀の始めに奏聞して、天平五年に開創し、すなわち官符を賜ひ、勅願所としたまふ。僧正の引率三十六客の氏族、二十二県に分処して、庄司・村主とし、池を掘り田を開き、院家に施入し、昆陽庄と号け、その中央に伽藍を建てて、梵音閣中にひびき、丹青画裏に鮮やかにして、善尽くし美をつくせり。
半丈六の瑠璃光仏・十一面観自在尊・梵天帝釈みな僧正のみづから作りて安筐したまひ、国家清平五穀豊穣の祈祷として、毎歳七十二度の神事、仏会を修し、また院家の地をもって、鰥(かん)寡孤独聾盲[病音・いん][病亞・あ]癩者等の卑賤に与ふ。そもそも開山行基は百済国王の胤にして、高志氏、泉州大鳥郡の人なり(伝記は『元亨釈書』に山づ。出誕の地は『和泉名所国会』に出づ)。天智帝七年に産まれて、はじめて十五歳の時薙染して薬師寺に入り、瑜伽唯歳等の論を新羅の恵基(えき)に学び、また義淵(ぎえん)に従ふて智恵証道を磨き、二十四歳にして具足戒を徳光法師に授り、つねに行化を事とせられけるに、道俗の追ひ随へる者百千に余る。その巡行の嶮所には橋を架し、あるいは地を闢いて田園を指示し、地渠を穿もては堤・川除を築き、見聞の及ぶ所みな功績を加ふ。ゆゑに州民今に至るまでその恩恵を蒙れり。さて王畿の内に精舎を営む事すべて四十九院なり。その来往の時、昆陽池の側にて独の病夫に遇へり。この者行基に告げて日く、われ業病を受けてこの地に通れ去るといへども、歩行に堪へざれは聚洛に入りて食を乞ふ事能はず。飢を凌がんため、この池に臨んで魚を取り、微命を絆ぎ侍る。行基日く、今より汝に食を与へん、殺生の業をなす事なかれ。すなはちその余肉を拾ふて放ちたまふ。しばらくして楽々波を起てて泳ぎける。今に一盲半赤身の魚この池にあり。聖武帝その霊験を聞きたまひ、工粮若干を賜ふて、つひに大伽藍となる。号けて崑崙山昆陽寺といふ。荘田一千五百石を寺産とし、金塔玉閣堂々として、大いに道化を振るふ。四来の黒白帰仰する者市のごとし。時の人摂州第一の名刹と賞ず。惜しむらくは、天正年間の寇火に罹って、ことごとく灰燼となる。その後、古刹の遺趾によって、今のごとく堂字を営みて、本尊および開山の像を安置す。詳らかには古鐘の銘文に見えたり。
昆陽寺の鐘名
一院を建立す。敷地は肆町、院家の惣領する空閑の荒野、一所。
肆の至は、東は伊丹阪を限り、南は笠池堤を限り、西は武庫川を限り、北は後通墓を限る。
大小の池十二所、四至内に在り。
摂津国、河辺北条、武庫東条に在り。
金堂一宇(三間四両瓦葺面)。講堂一宇(五間四面檜皮茸)。法華堂一宇。常行堂一宇。塔二基(各五重)。鐘楼一宇。経蔵一宇(各瓦茸)。高倉二宇。僧坊三宇。雑舎二宇。大門一宇。
薬師瑠璃光仏(半丈六像)・十一面観自在尊霊像・梵天帝釈像(各一躯)を安置奉る。おのおの僧正の自作なり。菩薩礼拝石一両(広さ一尺、厚さ三寸)
宝具 大幡(二流)。小幡(十二流)。楽器・檀具・花器等
右、一院建立の縁起は、本願行基大僧正、鎮護国家利益衆生を為し奉り、天平五年癸酉、渚名野の无生浅薄(むしょうはんぱく)の地を点じて草創する所なり。天竺の婆羅門僧正、朝覲の始め、行基僧正はすなはもこれ文殊の化身なることを知る。国王・大臣専ら帰依を致し、万民百姓悉く渇仰を成す。ここに菩薩公家に秦聞して猪名の荒野を申し請け、四至を堺し、[片旁]示を立て、手自ら水田一百五十町を開発し、院家に施入して、永く国郡をして摂領せしめずなり。ただ毎年七十二度の神事・仏事を勤修し、太上天皇の御祈所と為す。院家地利の与ふる所の所以は、聾盲[病音][病亞]孤独卑賤の類の為めにす。若し末世に臨んで、国王・大臣・国史・万姓、我が院家を忽諸して、摂領に押さへしむる者は、日月星宿転変し、旱魃暴風の難競ひ起こり、四海共に巳に滅して満足せん。菩薩遺誠して五人の弟子に付属し、番々出世し、我が院家を守護し、三会の朝を相続すべし云々。本縁起広く取りて、五箇国の内の建立、僧尼院四十九所・布施屋九所・船息二所・橋梁六所・堀河四所・漑樋三所・池十四所・[土果]二十所・溝流七所・大井垣一所、直に蒼生をしてその利を得せしめんと欲する所なり。
大僧正天平勝宝元年己丑二月二日を以って遷化す。遺誡して光信法師に付属して、門跡相ひ継ぎ宜しく検知を加ふペし。能事を竜華に胎す為に起文を鳧鐘(ふしょう)に刻鏤す。
時に天平勝宝元年己丑二月十五日、遺弟修行師位法師法義・修行師位法師清浄・進守夫法師首勇・修行帥位法師光信・修行帥位法師善添・持住位僧福尋等、これを記す。
天平勝宝元年己丑二月十五日、これを雕す。
ここに菩薩有り、行基と奉号す。鷲嶺(じゆりょう)に足を摂め、親しく真門に聴く。馬台に現形し、普く率土を化す。初めて荒原を闢き、すなはも吾が寺を建つ。一鳴の鐘を鋳て、四至の[片旁]勝を銘す。漸く澆濁(ぎょうだく)に及び、たちまち白波に没す。建立の歳、重ねて造成を企て。揄(ひ)き躔(ゆ)きてしばしは廻る。蒲[穴牛](ほろう)惟損ふのみ。今鎔範(ようはん)を致して、また記文を鏤む。万人財を投じ、衆僧力を勠す。定めて本願を知りて、遥かに中懐に鑑み。この微功を朋らして、彼の聖運を資く。金輪久しく転じ、玉燭鎮へに明かなり。 柳営夙静かに、松[草弄]歳昌んなり。大守を翼輔し、衆機を掌詮し。累葉奕世(えきせい)、大椿齢を譲る。法主を護持し、私窓を恢弘(かいこう)す。恵風久しく業にして、法水遍く灌ぐ。寺中安穏にして、三会の期に至る。境内豊穣にして、九年の畜に跨りて。洪音至る所、各長眠を驚かす。余薫す覃を修めて、斉く極苦を脱す。 十界無量、共に日宮に処す。 一切の有心、同じく月殿に遊ぶ。時に嘉暦改元の歳、仲冬十七日。
別当権律師法橋上人位慶瑜



昆陽寺(こんようじ) 伊丹市寺本2-169
高野山真言宗 崑崙山(こんろんさん)


本堂


観音堂


行基堂


鐘楼


役行者


納骨堂


凱旋紀念碑 忠勇義烈頌功碑


白長大明神


四国八十八箇所霊場石仏


鎮守堂 大梵天王


行基塚


稲荷大明神


弁天堂・寿老人 


魚鼈群霊供養所
HOME > 巻之六 河辺郡
inserted by FC2 system