この児童公園は江戸時代の豪商として知られる鴻池家の発祥地とされています。 東大阪市には鴻池家が開いた鴻池新田の会所が残り、国の重要文化財に指定されています。 鴻池家の由来を記したこの碑は、中国の古代貨幣「布貨}(ふか)の形をした砂岩製で、花崗岩製の亀趺(亀形の台石)の上に立てられています。 上部の凹凸部を篆額に見立て、右に「稲荷」、左に「祠碑」の文字を篆書で刻んでいます。 本文は大坂の私塾懐徳堂の教授であった中井穂徳(履軒)の撰文と筆になります。 制作年は碑文の内容から、天明4年(1784)から間もないころと考えられます。 碑文の大意は次のとおりです。 鴻池家は酒造によって財をなし、慶長5年(1600)から200年も続いている。その初代は幸元(ゆきもと)で山中鹿之介の子孫であると言われている。鴻池家は、はじめて清酒諸白を製造し、江戸まで出荷した。近隣の池田・伊丹・灘・西宮などでは鴻池家にあやかって酒造業を起こした者が数百軒もあった。 鴻池家の屋敷のうしろには大きな池があり、これを鴻池といった。これは村の名の由来となり、またその名前を大坂のの店の屋号として用いた。 鴻池家が酒造業を始めた年、屋敷の裏に稲荷の祠を祀って家内安全を願った。 幸元の子供らのうち大坂で分家した者は三家、そこからさらに九家が分かれた。大坂の鴻池家の冨は莫大になっている。 宝暦13年(1763)秋の台風で稲荷の祠が壊れた。 20年後、当主たちが集まり、「先祖の遺徳を忘れてはいけない。祠を再建する費用はわずかであるが、一人だけが出せば、他の人は先祖の恩徳を忘れてしまう。皆で出し合おう」ということになった。 天明4年に祠が復旧されたとき、それらの事情をすべて石に刻んで残そうということになった。 幸元から数えて7代目の当主元長の子、元漸(もとやす)は自分(中井履軒)の弟子であったので、元漸の依頼によってこの銘文をつくった。 |
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