小浜駅(こはまのえき) 昆陽荘都会の地なり。町名七、属邑四、交易の商人多し。
豊太閤有馬入湯の時、旅館としたまふ。故家今にあり。





小浜宿(こはまじゅく) 宝塚市小浜


毫摂寺(ごうしょうじ) 宝塚市小浜5-5-12
毫摂寺は真宗本願寺派のお寺で、丹波の僧乗専が本願寺3世覚如に帰依し、丹波六人部の天台寺院を本願寺に寄進し、覚如の別号の毫摂を寺名としました。
この寺を京都に移し、覚如の末子・善入をこの寺の住職としました。
その末裔の善秀が明応年間(15世紀末)に小浜庄を開き、ここに毫摂寺を建立したのがはじまりです。
江戸期には八本松の名所として知られ、また豊臣秀次と寺の次女・亀姫との悲話も残されています。
現在は小浜御坊ともよばれ、別院真宗寺院の典型的建築である江戸後期の本堂が残っています。


制札所跡 代官所跡

小浜には大坂から伊丹を通り、湯山(有馬)に至る湯治の道としての有馬街道や、西宮から伊子志の渡しで武庫川を渡り、酒や米を運んだ西宮街道(馬街道)、京都・伏見から山崎を通り、瀬川半町や加茂を経て入ってくる京伏見海道などの道筋が入っていました。
このため小浜の地は、江戸幕府から交通の要衡として重視され、抜け荷の禁止や駄賃を定めた制札(幕府の御定書)なども残っています。
また、小浜は荷物の継ぎ荷のことで西宮市の生瀬宿と争いがあったことも浄橋寺文書(西宮市)などの記録に残っています。
小浜は嘉永4年(1851)の記録によると、戸数202戸で人口800人であり、馬借・問屋・茶屋・旅籠などがならぶ町場で、専業農家はほとんど無かったとされています。
また、酒造りの名所としても知られ、井原西鶴は『西鶴俗つれづれ」のなかで、名産の産地として小浜の名をあげています。
さらに小浜は大工の町としても知られ、享保8年(1723)ごろ大工の組として「小浜組」が成立しています。  

山中家
小浜の山中家は、戦国時代の武将・山中鹿之助幸盛を先祖とする家系で、その子・幸元には八男二女があり、長男・新兵衛(清直)が慶長19年(1614)に小浜に分家して小浜山中家の祖となりました。
この家系は、江戸時代前期には酒造業も営んでいたようですが、中期頃からは医家として家系を継いだようで、当主は良和の名を代々継いでいました。
幕末には大坂の適塾にも学んだことがあったようです。
現在の屋敷は、寛政13年(1801)の祈祷札から18世紀末頃に建てられたものと考えられ、桟瓦葺で主屋入口はすり上げ戸になっていました。
この屋敷の位置は小浜の中心部にあり、町並み景観の重要な位置を占めています。
また裏庭に残る「玉の井」は名水が湧く井戸として著名で、秀吉が有馬へ湯治に出かけた際、毫摂寺に宿泊し、土地の銘菓・川面の水飴とともに、この玉の井の名水を汲み、茶を喫したといわれています。
また明治11年に起きた竹橋事件(西南事件の論功行賞に不満を持った兵士達が維新政府に対して起こした反乱事件)に参加し、処刑された山中繁蔵は当家の次男でした。
江戸初期に分家した伊丹鴻池の家系は大酒造家として財をなし、さらに鴻池善右衛門家も代々両替商として成功しています。 


北門跡
小浜の町の出入口、東、南、北の三ヶ所に町門が設けられ、ここを北門と呼び小浜の町の防備を固めるものであった。
この内脇に火難を除く火伏せの小祠がこの北の愛宕さん(宮)である。
毎年8月の地蔵盆には町内総出で赤い提灯を境内一面に飾り、お供え物を持ち寄り、この町の人を厄災から守ることを祈願するという愛宕さんのおまつりがあり、北の口町の行事として今に引き継がれている。  

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