当社は市内で唯一の式内社の格式をもち、祭神は伊狭城入彦皇子(いさぎいりひこのみこ)といわれています。 上坂部・下坂部は大彦命の子孫である坂合部連が住んでいた土地ともいわれ、久々知の名も命の子孫久々智から名付けられたようです。 当社は朝廷より神酒を賜わる例になっていたといわれ、また神酒を上坂部で醸造したため、酒部といったともいわれています。 さらに一説では、神崎の地名が当神社の前という意味の神前から起こったと伝えられています。 尼崎市教育委員会 |
五輪塔 元弘の変(1333)の良き、後醍醐天皇のた めに奮戦した赤松円心のゆかりのところで、 円心の墓と伝えられてきた |
小墾田宮跡碑 孝徳天皇が長柄豊崎に遷都されたとき、舟運によりて神前浜に御上陸、風光を賞で給い、此の地に行在所・小墾田宮を営み給う。その状を知る碑境内にあり。 玉葉雑二 善信法師 おはたゝ゛の板だの橋のと絶えしを ふみなおしてもわたる君かな 源実速 |
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