判官殿旅宿蹟(ほうがんどのりよしゆくのあと)大物橋爪にあり。今に公役免除の地なり。
武蔵坊弁慶借証文を、この地の仁木氏、今において伝来す。
 『東鑑』云ふ、
  元暦二年十一月六日、行家・義経、大物浜において乗船の剋、疾風俄かに起こりて逆浪船を覆がへすの間、慮の外、渡海の儀を止む。伴頭分散す。予州に相ひ従ふ輩、僅かに四人、いはゆる伊豆右街門尉・堀弥太郎・武蔵坊弁慶ならびに妾女静一人なり。今夜天王寺の辺に一宿し、この所より逐電す。今日作の両人を尋ね進らすべきの旨、院宣を諸国に下さる云々。






義経・辨慶隠家跡(よしつね・べんけいかくれがあと)  尼崎市大物町2-7-6 大物主神社境内
謡曲「船弁慶」ゆかりの地
古典 「平家物語」にはョ朝と不和になった源義経が 武蔵坊弁慶ら郎党と共に西国へ向うため 大物浦(尼崎市)から船出したものの 烈しい風浪のため押し戻されたことが書かれ これは 謡曲 「船弁慶」に脚色されているが そのとき 一時身をひそめたところがこの若宮社 (大物主命を祀り 大物主神社ともいう) 付近だと伝える 神埼川の流域にあり 「九州宗像大社」 又厳島神社の祭神である 宗像3柱をも祀ってあり かって大物の浦は この社前まで通っていたと云われている
なお義経は出帆を前に愛妾 静御前と別れを惜しんだといわれ 近くに”静名残りの橋碑”もある。        謡曲史跡保存会


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