多田荘平野湯(たばのしようひらののゆ) 平野湯本町の中間にあり。浴室の広さ方五丈ばかり、中を隔てて男女を分かつ。後に釜あり。これより薪を焚いて温湯とす。その時旅舎の人に入湯の鼓を触る。町の北に薬師堂あり。その岸の本より水勢沸々として霊泉涌出す。その色鶏卵を解きたるがごとし。上に釣瓶を設けてこれを汲み上げ、筧より浴屋へ流れ通ふ。これを湯にして諸人浴す。また幕湯といふは、自身入浴の時しばらく他の人を禁ず。またこの霊泉を旅舎へ運はし居風呂を建てて入湯するもあり。みな好みに随ふなり。
入湯の旅舎両側に建ちならぴて一町余あり。家数二十四戸いづれも奇麗に座舗を設けて、諸方の客を宿す。入浴人ここに泊まりて日毎に三度ばかり浴し、その間は好みに随ひ、碁・双六・生花・小歌・三弦の類を翫ぶ。旅舎の中にも枡屋が家には鞠懸り数奇屋を設けて、蹴鞠の興・茶湯の娯しみ自在なり。鮮魚は尼崎より日毎に運送す。
それ平野湯は、中華益陽県の金泉にひとしく、多田荘の山中に金山ありて、金取坑所々にあり。その脈ここに通じて水精露れ、全き冷泉にもあらず、完き温泉にもあらず、その小間にして涌出する事滔々たり。味は醎く渋味を帯びたり。これを焚火して湯とし入浴す。
ある人『多田温泉記』を著はし その文に曰く、これ醴泉なり。光武帝中元年中醴泉出づ。京師の人これを飲めば痼疾みな除くと『東観記』を引書し、また本草に、醴泉出づる所は常処なし、王者徳茂し清平に至る時は、醴泉涌出して老を養ふべしと書けり。そもそも本朝において醴泉といふは、美濃国養老滝・山城国醍醐水なるべし。多田の霊泉は金気に明礬の気味を兼ねたり。これを服する時は必ず害あり。またこれを浴する時は功能多し。まづ第一陽明経の病因を治し、五臓六府を養ひ、百脈を補ひ、骨髄を堅くし、筋骨を盛んにし、皮肉を肥し、精気を増し、下元を培し、血海を潤ほし、耳目を明かにし、心神を安んじ、気位を強くし、五積を治し、痰飲を去り、 瘀血を除き、瘡毒を解す。その外諸疾に益ある事神のごとし。
里諺に日く、もとこの金泉は始め源満仲公神明の告によつて感得したまへるより涌出す。中頃洪水に山崩れて滅び、また現れあるいは隠れし事数度に逮ぶ。元和年中より天下清平なれば、また現れ涌出す。元禄の頃官家に願ふて浴屋を建て、遠近ここに入浴す。功験著しければ日に増し繁昌の地となる事、これ摂陽風土の霊泉なるべし。





平野鉱泉(ひらのこうせん) 川西市平野3



三ツ矢サイダー発祥の地
川西市平野は、江戸時代には「摂津三湯」の一つ「平野湯」として栄えましたが、明治時代には鉱泉工場が進出しました。
明治14年(1881)、明治政府の意を受けたイギリス人ガランにより、この地に湧き出る鉱泉が飲料用に適したことが発見されました。 明治17年(1884)には、わが国最初の飲料水工場が誕生し、「平野水」の生産が始まっています。
その後、「平野シャンペンサーダー」、「平野ジンジャエール」などの商品が生産されましたが、大正4年(1915)には「三ツ矢」の商品名に改められ、とくに「三ツ矢シャンペンサイダー」は長く全国的に親しまれました。
また、大正時代には東洋一を誇る工場に成長し、海外にも輸出されました。
残念ながら、西宮工場への移転に伴い、昭和29年(1954)には炭酸飲料水の製造が中止され、昭和42年(1967)には炭酸ガスの製造も中止されました。
工場の建物は失われましたが、明治45年(1912)に造られた大正天皇の皇太子時代御用の「御料品製造所」のほか、源泉井戸が現存しています。   アサヒ飲料株式会社
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